なぜ若者は怒られると過剰に反応してしまうのか 上司にとって「怒らない=最適解」になる病理
「私たちは授業を受けに来ているので、苦情対応のために来ているのではない」 自分たちが怒られたという事実からは論点をそらしつつ、怒られる背景となった要因(たとえばアンケートへの返答)について苦情を述べる。「私たち怒られましたけど、あれ、私たちは悪くないんですよ。あなたの授業の構造の問題なんです」と言いたいかのようだ。 なんでここまでしつこく絡むのだろう。なんでそんなに怒られたくないのだろう。よほど自意識が強いのだろうか。たぶん違う。怒るというのはありえないことで、だから怒られるのはよほど恥ずかしいことをした証明だ、と教わってきたからだ。
怒ることを世の中から排除した結果、よっぽどのことをしないと怒られないので、怒られるヤツというのは相当恥ずかしい、ヤバいヤツだということになる。こう認識した結果、怒られるお前は最低だ、社会の底辺だ、みたいに感じてしまうのだろう。とんでもない勘違いである。私語に怒っている先生は別に個人の人格を攻撃しているわけでもないし、それは取り返しのつかない失敗でもなんでもない。 怒りという基本的感情を排除した余波は、こんな意外なところにも及んでいるのだ。
■いい感じに怒ってほしい ただし、ほとんどの若者は必ずしも怒る・怒られること自体を否定してはいない(怒ることを忌避して排除しているのはオトナである)。怒られることに異常ともいえる反応を示すのも、ごく一部である(が、たしかに存在しているし、増えていくだろう)。 実際、学生に「自分が部下だとして、遅刻してしまったら怒られるべきだと思いますか?」と訊いても、案外「怒られるのが当然」と言う人は少なくない。ざっくり半数くらいは、まあそれは怒られるべきじゃないの、と思っている。
理由として多いのは「怒られないのは逆に、見捨てられているような気がする」という意見だ。怒ることを正当化するわけじゃないけど、愛情ゆえの怒りというものも当然存在する。若者は過度なくらい感情の世界で生きていて、だからこそ愛してほしいのだ。 ただまあ、ちょっと都合が良い。「メンタルにくるようなのは止めてほしい」「諭すように怒ってほしい」「頭ごなしに……」「感情的に……」。非常に細かい注文がつく。お金払ってるお客さんにだったら細かいニーズでも応えようとするのだけど、相手は部下だ。お金もらうんじゃなくて払っている相手だ。