追悼…バルセロナ五輪で8本の痛み止め注射を打ち“涙の金メダル”を獲得した古賀稔彦氏は”優しい嘘”をついた
美しさと豪快さを同居させた一本背負いでファンを魅了した、バルセロナ五輪柔道男子71kg級の金メダリスト、古賀稔彦さんが24日にがんのため神奈川県内の自宅で死去した。まだ53歳という若さだった。突然届いた訃報に柔道界やスポーツ界のみならず、日本中が大きなショックを受けている。 常に一本勝ちを奪いにいくスタイルから、柔道を題材にした長編小説『姿三四郎』の主人公になぞらえ、いつしか「平成の三四郎」と呼ばれた古賀さんの競技人生のなかで真っ先に思い出されるのが、3回戦でまさかの敗退を喫した1988年のソウル大会からの捲土重来を期した2度目の挑戦で、悲願の五輪金メダルを手にした1992年のバルセロナ大会となるだろう。 男子71kg級が行われた現地時間7月31日。FCバルセロナのホーム、カンプ・ノウの近くにある屋内競技会場パラウ・ブラウグラナに、サンケイスポーツに入社して4年目だった筆者もいた。先輩記者が柔道担当を務めていたが、特別な事情があって観客席の取材を急きょ担当した。 1989年と1991年の柔道世界選手権を連覇していた古賀さんは、金メダルの大本命として、24歳という若さで日本選手団の主将も拝命して7月20日にバルセロナ入りした。しかし、一夜明けた21日に行われた現地での初練習中に、まさかのアクシデントに見舞われた。 公私ともに仲がよかった2歳年下の後輩で、78kg級代表として五輪に初出場していた吉田秀彦さんとの乱取り稽古中だった。得意の一本背負いを古賀さんが仕掛け、吉田さんが耐え、古賀さんがさらに踏ん張った瞬間に左足を滑らせ、2人分の体重がかかる形で崩れ落ちた。 メディアにも公開されていた練習を取材していた先輩記者が、血相を変えてプレスセンターに戻ってきたのを覚えている。不動の金メダル候補から一転して、棄権も危惧されたほどの左ひざの大けがは練習会場に青畳がなく、体操用のマットを代わりに使用していた状況で起こってしまった。 バルセロナ市内の病院から戻った古賀さんは、選手村の自室に閉じこもったまま姿を現さなくなった。何らかの動きがあるかもしれない、という日本からのデスクの指示のもと、日本選手団が入っている棟をフェンス越しにチェックする、いわゆる“張り込み取材”を、バルセロナの青空のもとで数日間にわたって続けた。 開会式を前にした記者会見で公の場に姿を現した古賀さんは、晴れやかな表情を浮かべながら「自分が思っていたよりもひどくなかった」と左ひざの状態を説明した。 もちろん事実とは異なっていた。内側側副じん帯を損傷し、最低でも3週間の安静が必要との診断が下されていた。 だが、古賀さんは後輩の吉田さんをかばい、周囲を心配させず、一身に背負った日本の期待を裏切らないために“優しい嘘”をついた。それが、古賀さんの美学だった。