大阪・南海ファン漫画家 時代を超えパ・リーグにエール
熱戦が続くプロ野球、大阪の漫画家・イラストレーター中島宏幸さんは、今なお南海ホークスファンだ。南海ホークスは現福岡ソフトバンクホークスの前身で、大阪・難波の大阪球場を拠点にしていたパ・リーグの名門チームだった。中島さんは「昭和のパ・リーグにはサムライたちが群雄割拠していた」と、時代を超えてパ・リーグにエールを送り続ける。
家族5人で南海戦観戦が最大の娯楽
中島さんは1956年(昭和31)大阪市生まれの58歳。幼いころから南海びいきの父親に連れられ、今里から大阪球場へ観戦に出かけた。若き父と母、中島少年と妹ふたりの家族5人。子どもたちは外出着に身を包み、母親お手製のごちそうに舌鼓を打つ。中島家最大の娯楽だった。 父親は鶴岡監督に心酔。中島少年は強打者の野村捕手や俊足好打の広瀬外野手から目を離せない。観戦を終えると、女性陣とは別れて、父親と男同士で球場近くの居酒屋へ。ほろ酔いで上機嫌の父に、中島少年はコーラと串カツで付き合いながら、野球談議に花を咲かせた。 南海ホークスの帽子を被った小学1年時の写真を、携帯電話の待ち受け画面に使っている。中島さんは昭和30年代当時の状況を振り返る。 「僕の周りの大半は南海ファンか巨人ファンで、阪神ファンは少なかった。大阪球場もガラガラだったという記憶はない。けっこうお客さんが入っていました」
球場で見上げる群青色の夕空がきれいだった
プロ野球史は一色だけではなく、多彩なチームカラーで織り込まれてきた。1959年(昭和34)、南海は圧倒的強さでリーグを制覇し、日本シリーズで巨人と激突。エース杉浦が4連投4連勝の離れ技をやってのけ、日本一に。御堂筋がいせんパレードには多くの大阪府民が集まった。この最強伝説に彩られた南海黄金時代に、中島さんは少年期を過ごすことができた。 背丈が伸びると、大阪球場のスタンドで売り子のバイト。「ファンタを売れば売るほど、バイト料が上がる。でも、南海がチャンスを迎えたら、ファンタ売るのを忘れ、試合ばっかり観ていた」と笑顔が弾ける。 南海ファンであるとともに、大阪球場ファンだったと強調する。「ナイターの初回あたり、夕日が沈みかけた群青色の空がきれいだった」と、イラストレーターらしい美意識をかいまみせる。現在のドーム球場では体験できない美しさだ。 1988年(昭和63)のシーズンを最後に、南海ホークスは姿を消す。福岡ダイエーホークスを経て、福岡ソフトバンクホークスへ。大阪市西区の中島さんの工房には、大阪球場に設置されていたポスター掲示板や、南海ホークス大阪球場最終戦の写真パネルなど、懐かしい南海ゆかりの品が集められている。