ご存じですか? 織田信長が可愛がった黒人サムライ・弥助の「史実での来歴」 本能寺の変の後は不明
戦国時代の日本に、アフリカ出身の黒人武士がいたことをご存知だろうか? 織田信長は彼を気に入り、「弥助」と名付けて御小姓にも選んでいた。なぜ弥助は日本に来たのだろうか? また、本能寺の変のあと、彼はどこへ行ったのだろうか。 ■信長に気に入られ、御小姓まで出世 人気ゲームシリーズ『アサシン クリード』が、戦国時代の日本を舞台にした最新作『アサシン クリード シャドウズ』の主人公が「忍」の奈緒江と「侍」の弥助であることを発表したことでネットはかなり沸き立ちました。 弥助は、晩年の織田信長に御小姓として仕えた黒人の青年・弥助をモデルにしたキャラクターだと思われるので、おもしろい人選だと個人的には感じました(ただし、弥助に関しては欧米で史実ではない情報が流布しており、かなり炎上中のようです)。 史実の弥助と信長の出会いは、天正9年(1581年)2月、京都の本能寺で、正確にいえば、弥助の名前もその時、信長から与えられたものです。もともと弥助はイエズス会の司祭・ヴァリニャーノがインドで買い求めたアフリカ系の黒人奴隷でしたが、黒い肌を持つ彼に強い関心を示した信長は、ヴァリニャーノから譲ってもらう形で彼を家臣の列に加えました。今日的な観点から見れば、本人の意思など完全無視、炎上間違いなしのやりとりではあります。 当時のインドにはすでに巨大な奴隷市場が存在し、インドはポルトガルの支配下にありました。アフリカ東海岸にあったポルトガルの奴隷輸出会社を通じて、黒人奴隷は安価な労働力として世界中に輸出されており、おそらく現在のモザンビーク出身だった弥助も不幸にして奴隷商人の手で捕らえられ、インドまで船底にモノのように詰めこまれて運ばれ、当地でイエズス会の宣教師に買われたという来歴のようです。 数奇な運命に導かれるまま日本にたどり着いた弥助でしたが、信長は彼を大いに可愛がりました。「彼の男(弥助)健やかに器量也。爾(しか)も強力十之人に勝ちたり」という記述が太田牛一による『信長公記』にあります(一部、原文の表記をわかりやすく改変)。 御小姓とは、主君の身辺に仕えて雑用をこなすのが仕事で、主に名門の子弟から選ばれてなるのが普通でした。黒人奴隷から御小姓とはかなりの出世です。健康で聡明、しかもパワフルな弥助は信長から大いに気に入られ、「侍」としての才能を見出されていたのでしょう。 仮に「本能寺の変」が起きていなければ、信長のもとで武士としての英才教育を受けた弥助は本当に織田家中を支える人物に成長していたかもしれません。 ■「本能寺の変」のあと、どこへ行ったのか? しかし、弥助が信長に取り立てられてからわずか1年4ヶ月後、「本能寺の変」が勃発しました。「本能寺の変」当日の天正10年(1582年)6月2日、本能寺に宿泊していた信長の側に弥助も控えており、武器を取って明智軍と戦ったそうです。 信長が自害に追い込まれた後も弥助は奮戦を続けましたが、明智軍に捕らえられ、光秀から「彼は黒人で、動物のようなものだ」という理由で「南蛮寺」――つまりイエズス会の運営する教会に引き渡される形で釈放されています。 そして、それ以降の弥助の足取りを史料上は辿れなくなるのですが、宣教師たちと共にヨーロッパに向かったか、あるいはゲームのように「侍」として、生涯を過ごしたのかもしれません。 ちなみに17世紀後半、ロシア帝国の君主だったピョートル大帝も、黒人の小姓アブラム・ガンニバル(イブラヒム・ガンニバル)に高い才能を見出し、後には貴族の身分を与えて、重用したことは有名ですね。 もともとガンニバルはトルコ人に拉致され、奴隷としてロシアに売られてしまったアフリカ系黒人奴隷だったと考えられていますが、ロシアの貴族になった結果、彼のひ孫には「近代ロシア文学の祖」と謳われる文豪・プーシキンの曽祖父がいますし、ヨーロッパ中の貴族たちに彼の血統は現在でも受け継がれています。 ちなみにガンニバルのひ孫のプーシキンの時点で、彼の曽祖父が黒人であったとうかがえる外見的要素はほとんど見当たりません。このように、日本のどこかで、信長の御小姓だった弥助の血統も、今もなお、ひっそりと受け継がれ、続いているのかもしれません。
堀江宏樹