インドの沙漠で痛感した日本人のヤバい「劣化」、電気まみれの生活で日本人が本当に失ってしまったもの
かくいう僕も、随分と付き合わされた。日中の太陽ですっかり疲弊した僕の身体にとって、肌寒い夜の沙漠を太陽が昇るまで歩き、走り続ける猟は、それはそれは過酷なものだった。 「おいコーダイ、そっちに行ったぞ! 回りこめ!」 などと命令されながら、足を取られるひんやりとした砂地の上を走り続ける。体力勝負だ。 しかし、ここでも彼らの「目の良さ」が遺憾なく発揮される。数百メートル先の茂みの中に、確実に動物たちの気配を感じ取り、遠距離から動物たちの目にピンポイントでライフル弾を撃ち込む彼らの手腕には、ゾクゾクするほど感激したものだ。
そこでは4~5時間ものあいだ、動物の息づかいや臭いと、彼らが駆け抜ける地形との、微細で複雑な対話が続けられる。 それでも、ダメな時はダメだ。動物たちの才覚に、完敗することも多い。それは、敵陣のゴールまで戦略的にボールを運ぼうとするサッカーのような集団プレーにとてもよく似ていて、緊張と弛緩の波が目まぐるしく変化する、究極のゲームなのである。 「Game」という英語が、狩猟の意味を帯び、かつギャンブルの語源となっているのも、全くもって納得する。動物の「気」を読み、地形と風の流れを読み、微細な光の変化を読む。それは人間と動物の織りなす、生命の遊戯だ。
■ここでの「ゲーム」に勝つには課金でなく努力がマスト ボードゲームもトランプもスマホもSwitchもNetflixもない彼らの世界では、彼らを取り巻く環境と、そこに息づく生命たちとのバトルという名の対話が、最高の遊びとなっている。 そのゲームに参加し勝利するためには、課金をしてアイテムを揃えたり、敵を倒してレベルアップするのとはケタ違いの努力――自身の身体を鍛え上げ、動物と対話をするためのアンテナとセンスを磨き、全ての感覚器官の感度を高め、危険極まる世界に飛び込んでいくためのゆるぎない自信を構築していく、絶え間ない努力と実践知の蓄積――が必要とされるのだ。