日本はそもそも「民主主義」なのか? 「沖縄」に向き合ってこなかった国の現実
タイトルに込められた意味
そこで炙り出されるのは、「沖縄」と「日本」との距離感である。「ちむどんどん」とは、沖縄本土復帰50周年を記念するNHK朝ドラのタイトルである。「50年」という数字は、「日本」という国家に沖縄が再び併合されてから何年経ったのかを数えたもので、つまり、日本史のなかの「沖縄」の歴史を記念したものである。そしてこの番組を制作・放映したNHK(=日本放送協会)は、日本唯一の公共放送であり、人々の心の中に日本人意識を培う役割を果たしてきた。それは、“想像の共同体”としての「日本」を生み出してきたメディアなのである。 『ちむどんどん』は公共放送で放送された。そうであれば本来は、沖縄もそれ以外の全ての地域でも等しく公益性を保つべきメディア機関である。ドラマは沖縄を素材としながら当事者・当地からの視点や歴史に立脚せず、「日本」からの目線で語っていなかっただろうか。これは放送当時から「#ちむどんどん反省会」SNS上で盛り上がったツッコミ大会でも話題になっていた問いかけである。このハッシュタグは新語・流行語大賞の候補にも上がった。 公共放送の国民的番組名をもじった『シン・ちむどんどん』というタイトルには、こうした問いを風刺の作法で伝えようとする姿勢が表れているのではないだろうか。 そのあたまには「シン」がつく。この古くて新しい形容詞は、2016年にブームになった『シン・ゴジラ』以降広がった言い回しだ。「新/真/神/信/心/身/震…」となんでも思わせぶりに投げ込めるワードとして流行した。 これまたパロディだが、こちらは現代社会のあるムードを示す「時事性」の符牒である。すなわち、「シン」という言葉は、現実を直視せず過ぎ去った過去を美化し、ときに歴史修正をする現代「日本社会」の姿勢を象徴している。 「高度経済成長」を美化する近年の日本社会ムード。1964年の東京オリンピックと70年大阪万博という戦後復興と経済成長の象徴とみなされてきた東西の巨大イベントは、2020年代に入り、時代錯誤な失言を繰り返す“偉い人”たちによって粛々と再演されている。いっぽう並行して沖縄では何が起こってきたか。朝鮮戦争・ベトナム戦争を機に軍事要衝化が進み、1972年に日本に再併合された後も、日本領土内の米軍基地は沖縄に集中し続けた。そして今もなお、「粛々と進める」と首相が公言し県民の民意を無視した基地建設が進められている。 ポピュラーカルチャーは「古き良き時代」を美化してそれを支えていないか。昭和レトロブームを牽引した『Always3丁目の夕日』はそうした作品の代表格として知られる。シンの筆頭『シン・ゴジラ』はどうか。同作が東日本大震災後の日本をポリティカル・フィクションとして描いたことはよく知られているが、日本の危機を救うプレーヤーは、日本の高度成長の“主役”とされた「役人」と「技官」である。それどころか、エグゼクティブ・プロデューサーの山内章弘は日本政府を「象徴というか、日本の代表として」描いたと述べている(1)。「日本」というその主語の意味するところは、実際に「日本政府」のことなのである。 エヴァンゲリオンなどにも見られる庵野秀明監督の“役所趣味”がここで発揮されたのは、教条的な愛国思想などではなく、エンターテイメントが、「日本」を日本政府と同一視する社会の主権者意識を映しとった結果なのだろう。監督が手がける「シン」シリーズがどれも高度成長期に流行したコンテンツであることも、現代日本のムードをよく示している。 「日本=政府」という大きすぎる主語とわかりやすい美談、そしてその裏にある沖縄地域の犠牲と複雑な関係性。これは東日本大震災へと至る福島の問題もまた思わせる。この構造を支えるのは、憲法をも超越した権利を振るう政府の姿勢だけではない。それを是認する主権者の無関心や、イノセントでポップな愛国心である。 実経済が衰退しているならば、日本社会はむしろ美化した古き良き時代をテーマパーク化して「“Always3丁目の夕日”国家」へと向かうのはどう? ――ダース氏は、各所の時評でもそれが日本が生き残る道だと皮肉を込めたツッコミを展開している(2)。現実に向き合わず「美化された過去の日本」イメージを消費し、永遠にやって来ないゴドーのようなリバイバルを待望する。そんな「シン・ニッポン」が沖縄の現実を直視できるはずもない。 「シン」と「ちむどんどん」。本作のタイトルは、これらを見事に掛け合わせたパロディだ。「日本」の内部で下位におかれ、あまつさえ消費されてきた「沖縄」は現在いかなる現状にあるのか。粉飾決算することで自らの未来への不安を隠して歩みを進め続けようとする日本社会は、沖縄をどこに連れていこうとしているのか。 『シン・ちむどんどん』は、こうした「日本」と「沖縄」を描く。社会時評の顔で、現代日本のカルチャーコンテンツの「中心」たるシン・シリーズの末尾にしれっと並びながら(? )、その意味を「周縁」から換骨奪胎して裏返してみせる。この「真」のサブカルチャー(=下位・周縁文化)たる風刺の手つきは、そもそもヒルカラナンデスという番組名にも表れていた。