横浜市民が考える「横浜」と、観光客の「横浜」は全くもって別物である
市民目線で見る「観光寄与度」
さらに、横浜を観光地として認識している横浜市民は多くない。横浜市の「観光・MICEの振興に関する市民意識調査(オンライン)」(2023年6月)の結果によると、観光に対する市民の意識は次のようになっている。 ●横浜市の発展への観光の寄与度 ・とてもそう思う:23.4% ・ややそう思う:43.4% ・どちらとも言えない:21.7% ・あまりそう思わない:5.5% ・そう思わない:6.0% ●横浜市が観光に関して評価されていることを誇りに思うか ・とても誇りに思う:25.2% ・やや誇りに思う:39.2% ・どちらとも言えない:26.3% ・あまりそう思わない:3.8% ・そう思わない:5.6% ●横浜市の観光推奨度 ・とても勧めたい:17.7% ・やや勧めたい:36.4% ・どちらとも言えない:34.4% ・あまりそう思わない:4.6% ・そう思わない:6.9% 市外からは観光地としてにぎわっているイメージの強い横浜市だが、市民にとってはひとごとなのかもしれない。特に、横浜市の発展への観光の寄与度があると考える人(「とてもそう思う」+「ややそう思う」)が約7割(66.8%)なのは気になる。多いのか少ないのか、微妙なところだ。 この調査では、市民の「横浜市内への観光頻度」も調査しているが、調査対象者のうち38.3%が 「横浜市内の観光はほとんどしない」 と回答している。さらに「観光客との関わりの有無」では全体の72.1%が「関わりはない」と回答している。このほか日本人観光客に来てほしいと思っている割合は64.0%。外国人観光客については、58.9%となっている。
隠された横浜の魅力、地元エリアの再評価
横浜像のギャップは、両者が接する横浜の姿の違いに起因している。 一般にイメージされる横浜は、みなとみらい、中華街、山下公園などの港に面したエリアである。これはごく一面的なものだ。例えば、港町のイメージと裏腹に横浜市では農業も依然として盛んだ。2020年の調査では総農家数は3056戸(販売農家数1770戸、自給的農家数1286戸)となっている。総農家の経営耕地面積は1675haある。1990年の6106戸からは半数近くまで減少しているものの、依然として農家は多い。ここからも、 「横浜 = 港町」 というのは外部から見たイメージにすぎないことがわかるだろう。 横浜は、1859(安政6)年に半農半漁の寒村だった横浜村が開港したことをきっかけに発展した。港を中心に都市建設が進められ、外国人居留地設置により異文化も流入し独自の発展を遂げてきた。この経緯から、常に横浜は港のある一部分のみが注目されてきた。横浜都市発展記念館の青木祐介氏は、論文「都市のアイデンティティ形成と歴史遺産 -横浜を事例として-」(『専修大学人文科学研究所月報』237号)でこう述べている。 「専門書はともかくとして、一般には、都市横浜の歴史はあたかも開港とともに始まったかのように語られることが多い。現在、18の区で構成され、総面積 430平方キロメートルを超える横浜市であっても、多くの人が横浜と聞いて想像するのは、開港の舞台となった港を中心としたエリアであろう。開港を始点とする歴史物語は、つねに横浜のシティセールスとして取り上げられ、観光地としての港町ヨコハマのイメージを作り出してきた」 ここにも記されているとおり、横浜市は18区から成り立っている。うち、一般的に横浜と聞いて想像されるエリアは ・西区(横浜駅・みなとみらいなど) ・中区(みなとみらい、中華街、山下公園など) のごく一部にすぎない。実際に横浜のイメージの中心となっているのは、このふたつの区の中のごく一部分だ。 例えば、中区は北部に観光スポットが集中しているのに対して、南部は観光地とはかけ離れた住宅街だ。つまり、横浜市のほとんどの部分、少なくとも18区中16区は一般的なイメージとは異なる横浜なのである。横浜市は、横浜港周辺のわずか5.4平方キロメートルにすぎなかった。この後、横浜市は港湾および工業化の進展による工場地帯と、その労働力確保のために市域を拡大していった。 横浜市の歴史では、この拡大を第1次から第6次までの市域拡張と呼称している。1901(明治34)年の第1次市域拡張では、当時の金川町と保土ケ谷町(一部)を編入した。1927(昭和2)年4月の第4次拡張では当時の鶴見町などが編入された。二俣川や戸塚町のエリアが編入されたのは1939年4月の第6次拡張だった。この第6次拡張で、横浜市の面積は400.97平方キロメートルとなり、ほぼ現在の市域となった(その後、埋め立てで面積は拡大し2022年3月現在、435.95平方キロメートル)。 1925年5月に就任した有吉忠一市長は、横浜港の拡張・臨海工業地帯の建設・市域拡張の三大方針を打ち出し「大横浜」を建設した人物として知られている。横浜開港資料館館報『開港のひろば』第97号では、この政策の理由をこう記している。 「有吉は、それまで生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して本格的な工業化を推し進めるためには、臨海部に大規模な工業地帯を建設し、それらを包摂する港湾機能を拡充させ、さらにその外側に港湾を支える広大な後背地を獲得することを企図していた。これらは「大横浜建設」の三大方針と呼ばれた」 このように、横浜市は市域を拡大し中心エリアの発展を促進してきた。市域拡張によって横浜市となったエリアの多くは農村であった。この農村エリアは工業化と都市化の中で、内陸工業地帯と住宅地という二つの方向性で発展していくこととなった。 例えば、東急東横線・田園都市線の走るエリアは、戦後の高度成長期になると、東京のベッドタウンとしての役割を担うエリアとして発展している。いうまでもなく、この沿線は横浜市でありながら、港町のイメージはない。横浜市は発展とともに、都市化に伴う社会問題にも直面することとなった。これも、横浜市の違う風景を生み出した理由だ。 横浜市は1919(大正8)年に「慈救課」という部署を新設した。この新設課の主な業務は ・慈恵を目的とする施設に関する事項 ・感化保育に関する事項 ・施療に関する事項 などであった。つまり、この部署は現在の社会福祉全般を担当していた。大正時代に既にこのような社会事業を行う部署が設置された理由は、都市の発展とともに仕事を求めて社会の下層に追いやられていた人々も集まるようになったからだ。そこでは、同時に行き場のない人々が集う 「スラム」 も生まれた。とりわけ、市内の丘陵部にある谷戸と呼ばれる窪地は、日当たりも悪く急傾斜地だらけの土地だった。 横浜市では早い時期から、そうした状況を放置せずに福祉の対象としてきた。こうした行政の対応の結果か、現在では典型的なスラムは消滅したが、横浜市内には昔ながらの下町と呼ばれるエリアは広い。寿町(中区)のような 「日雇い労働者の街」 もある。これもまた、横浜の一般的なイメージと相反する部分がある理由でもある。 港や工業地帯に多くの労働力が集まった結果、横浜市では猥雑(わいざつ)な歓楽街も著しく発展した。21世紀に消滅した黄金(こがね)町もそのひとつだ。戦前まで大岡川の船運を活用した問屋街だった黄金町は、戦後には不法占拠のバラック群がならぶエリアとなった。昭和30年代には、ここは売春や麻薬の密売が横行する極めて危険なエリアとなった。その光景は1963年の黒澤明の映画『天国と地獄』などにも取り上げられている。 その後、麻薬の密売は取り締まりによって消滅したものの21世紀まで、黄金町は飲食店で公然と売春が行われているエリアとして知られていた。そうした街の風景は2005年に取り締まりが強化されたことでついに消滅。その後は、若者向けのカフェやバーが並ぶエリアとして再建されることになった。それでもなお、一般にイメージされる横浜とはかけ離れた歓楽街はあちこちに残っている。