皇室民主化の象徴だった戦後「旧皇族」の皇籍離脱 成城大教授・森暢平
◇社会学的皇室ウォッチング!/118 これでいいのか「旧宮家養子案」―第20弾― 旧宮家皇族たちが、もし連合国軍総司令部(GHQ)に皇籍離脱させられたなら、独立回復後、復籍させて皇位継承者を確保しなかったのはなぜだろうか。それは、敗戦直後の皇籍離脱が「皇室の民主化」の象徴であり、国民はこぞって雲上から「降りてきた」皇族の「国民化」を称賛したためである。(一部敬称略) 今回は、閑院宮春仁(皇籍離脱時45歳。のちに閑院純仁(すみひと)と改名)を取りあげる。少年から青年になるころ、健康上の理由から閑院宮家別邸があった小田原に居住した。中等教育も、神奈川県立小田原中学校(現在の県立小田原高校)で受けた。陸軍士官学校を経て、騎兵少尉に任官。敗戦時は、戦車第四連隊の師団長心得(少将)であった。五摂家の一つ、一条家出身の直子と結婚し、子どもはなかった(このため、閑院家は1988〈昭和63〉年の春仁〈純仁〉の死で廃絶した)。 戦争終了後は、春仁は直子とともに小田原別邸を拠点に生活していた。皇籍離脱から7日後の1947(昭和22)年10月21日、記者団と会見し、「平民閑院」の心境を語っている。同時に、記者たちに手記を手渡した。これを報じたのは確認できる範囲では、『サンデー毎日』(11月9日号)と『神奈川新聞』(10月23日)である(以下、春仁の発言は『サンデー毎日』から引用し、一部『神奈川新聞』で補った)。 「皇籍離脱の御感想を」と聞かれた春仁は、「(離脱が)本格的な世論となつて以来、その実現の日を待望していた。皇族籍を離脱されて、さぞお淋(さび)しいでしようと同情されるのは私にいわせればお門違いである」と言い切る。春仁は皇籍離脱を見据え、三都和(みつわ)商会(本社・東京日本橋)の社長におさまっていた。進駐軍向けの建築金具の製造のほか、結婚相談など手広く事業を手掛けた合名会社である。春仁は「純然たる民間人として、実業方面に進み、再建日本のために出来るだけのことをしたい」「(社長業は)ロボツト的存在に甘んずる気持はない」と強調した。