「テーマパーク化した大学」を経たZ世代の不都合 先生と生徒が共犯でうみだす「いい子症候群」
単刀直入に言えば、筆者は授業をしていて気付いたのだ。ああ、この学生たちはもしかして、「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」んじゃないかと。三つ子の魂、二十まで。高校を卒業してハタチ前後になっても、三つ子の頃のことを忘れていない。 学生たちは、ただ何もせず座っている。手も挙げず、ノートも取らず、たまにスマホをいじったり。当てても苦笑して横を見るだけだ。なのに、なぜか教室には居る。授業には来る。こういう性質はどこから来たのだろうと不思議にも思い、そして気付いたことがある。「いい子症候群」はきっと、小中高と積み重ねられた先生たちとの「共犯関係」の産物なのだと。
まったく余談ながら、筆者は「怖い」と言われることが多い。教育現場では、この怖さを最大限活用しており、ほどほどに威嚇しておくと学生は比較的おとなしい。ところが他の先生の話を聞いていると、授業での学生の騒ぎっぷりたるや、まあ酷いものである(ちなみに、治安と偏差値はたいして関係ない)。相手を見て振る舞いを変える狡猾さもまた、実に若者っぽい性質だ。 かつ、現代の大学、というより教育現場では、学生を安易に怒れないという問題がある。アンガーマネジメントという言葉が浸透し、人前で怒る人は異常者のような扱いを受ける時代だ。職場でも学校でも、若者を怒るということは忌避されており、そもそも現象として珍しくなってすらいる。
とある大学の先生は、授業態度を注意したときに言われたことがあるそうだ。 「PTAに言いつけますけど、いいんですか?」 その先生は「大学にPTAはありません」とどストレートに事実だけ告げて、学生を退場させたとか。要するに、小中高では保護者に言いつけられるのが一番メンドクサイ。この手の悪い奴らは、どうやったらオトナが嫌がるのかということをよく知っている。 ■「互いに無関心である」であることが一番ハッピー
昨今の報道の通り、小中高の先生たちはかなり疲弊している。ぶつかってでも教育する、クレームを恐れずに向き合うよりは、何も起きないように振る舞うことを選んでも、正直責められない。授業のたび騒ぐ子どもたち。キレたくなる気持ちを一生懸命に静めて、怒るまいと思いながら授業を進める先生。ふと、心に魔が差す。 「もし、授業をしないで済んだら……そして、生徒が何も言わず見過ごしてくれたら……」 このとき、先生と生徒との間に、悪魔の約定が成立する。先生はテキトーに授業する。生徒はテキトーに流す。ただ、黙って座っているだけ。これが、互いの幸福度を最大化する均衡点なのだ。