ロシアの怪僧ラスプーチンとは何者だったのか、皇帝の信頼をどう得て、なぜ暗殺されたのか
ロシアにとっての脅威
ラスプーチンに対しては、ずいぶん前から死の脅迫が寄せられていたが、やがてどんな手段を使ってでも彼を排除すべきだという意見が公然と聞かれるようになった。 1914年6月にナイフを持った女性に襲われて腹部に致命傷に近い傷を負うと、それ以降はどこへ行くにも警察が護衛についた。ラスプーチンは厳重に保護されていたため、だれも命を狙うほど接近できなかった。 ラスプーチンが皇后に対して大きな影響力を持っているのではないかとの疑惑が、ロマノフ家の重鎮たちの間に深刻な懸念を生じさせた。彼らは、29歳と若く、衝動的で、経験の浅いフェリックス・ユスポフ公が企てた暗殺計画を、あえて黙認することにした。 ロシアでも有数の裕福な家系に生まれ、ニコライ2世の姪イリナと結婚したユスポフは、ロシアからラスプーチンを排除することは愛国者たる自身の義務であると考えていた。ラスプーチンを亡きものにして、皇帝の評判を回復させ、皇帝がもっと自身の親類や貴族、国会に目を向ける支援をしたいと彼は望んだ。 1916年10月、ユスポフは友人であり、ニコライ2世の従兄弟でもある25歳のドミトリー・パブロビッチを暗殺計画に引き込んだ。11月末、彼らはロシア国会の議員で、以前から公然とラスプーチンを非難していたウラジーミル・プリシケビッチを勧誘した。 最終的な計画には、さらに2名が加わった。近衛連隊将校のセルゲイ・ミハイロビッチ・スホーチン大尉と、ポーランド人医師のスタニスラフ・ラゾベルトだ。ラゾベルトは、ユスポフが入手した毒(青酸カリの結晶)の投与に手を貸すことになっていた。
その夜、何が起こったのか
1916年12月16日から17日にかけての出来事について最もよく知られている記録は、ラスプーチンの死後10年ほど経ってから発表されたユスポフ自身の著作だ。『La Fin de Raspoutine(ラスプーチンの最期)』(そして1950年代に出版された回顧録『Lost Splendor(失われた栄光)』)の中でユスポフは、暗殺計画を最初から最後まで詳細に記している。手始めとして、ユスポフは暗殺を行う数週間前から、健康問題についての相談を持ちかけ、ラスプーチンと親交を結んでいた。 ユスポフ家はサンクトペテルブルクのモイカ運河沿いに宮殿を持っており、そこが殺害の実行場所として選ばれた。ユスポフは、妻であるイリナ公女を紹介させてほしいと、ラスプーチンをモイカに招いた。だれにも知られることなく、警備の目をかいくぐってこの訪問を実現させるために、ラスプーチンには12月16日の非常に遅い時間に来てもらうことにした。
文=HELEN RAPPAPORT/訳=北村京子