ロシアの怪僧ラスプーチンとは何者だったのか、皇帝の信頼をどう得て、なぜ暗殺されたのか
最後の皇帝の寵愛を受けた聖職者の暴力的な死の謎を追う(前編)
1916年12月16日の夜から17日の朝にかけて(※)、ロシアでも有数の壮麗な宮殿で、一人の男が殺害された。これは、グレゴリー・ラスプーチンと彼を重用していた帝政ロシアの重鎮たちに対する、醜悪かつ組織的な排除運動の末路だった。 ギャラリー:ロシアの怪僧ラスプーチン暗殺の真相とは 写真と画像23点 第一次世界大戦によってヨーロッパが荒廃し、ロシアが否応なしに革命へとなだれ込んでいく中、この事件は皇帝派のエリートたちを震え上がらせた。 長い間、ラスプーチンは“狂気の僧侶”という誤った人物像が流布されてきた。100年以上がたった今日でも、ラスプーチンの殺害にまつわるセンセーショナルな記事が書かれ、ロシア最後の皇帝ニコライ2世および皇后アレクサンドラとの親密な関係の真の姿は歪められ続けている。ロマノフ家の皇帝・皇后と極めて近い間柄になった身分の低い農民で元馬商人に、皇帝の側近たちは警戒心を強め、ラスプーチンとその支持者たちを忌み嫌うようになっていた。
シベリアの寒村から宮廷に上りつめる
1869年に農民の家に生まれたグリゴリー・エフィモビッチ・ラスプーチンは、サンクトペテルブルクから約2600キロ離れたシベリア西部の寒村ポクロフスコエで育った。どのような幼少期を過ごしたのかについては記録が乏しく、詳しいことはわかっていない。 19歳のときに結婚したプラスコビア・フョードロブナ・ドゥブロビナとの間には、やがて4人の子供が生まれた。 1892年、20代半ばに彼は家族を後に残して家を出た。一説によると、宗教的な啓示を受けて、修道院で3カ月を過ごしたと言われるが、正式な聖職者になったことはない。それからの数年間、彼は精神的な啓蒙を求めてロシア各地を放浪して過ごした。 1905年には、ラスプーチンはサンクトペテルブルクにおいて、霊的な指導者およびヒーラーとしての地位を確立していた。当時、ロシアのエリートの間では、代替医療やオカルトへの関心が高まっていた。 ラスプーチンの周りには、熱狂的な女性信奉者が多く集まり、「神の人」として崇められた。その一方で、ラスプーチンについては、大酒飲みで性的捕食者であるとの噂が流れ始めていた。 (※編注:本記事内の日付は、当時ロシアで使用されていたユリウス暦に対応しており、現在使われているグレゴリオ暦よりも13日遅れている)