新喜劇がはじまる前に客が帰ってしまう!?本当に“解散”寸前だった…吉本新喜劇が直面した「危機」
地方営業の日々
65周年を迎え、7月からは全国ツアーも開催される吉本新喜劇。しかし歴史を振り返ると、常に順風満帆だったわけではない。80年代初頭まで劇場の目玉だった吉本新喜劇は漫才ブームの到来と共に失速、上層部は『やめよッカナ? キャンペーン』という大手術を行ったのだ。当時は去る側の立場だった間寛平さん、やなぎ浩二さんに加え、さらに大道具の岸村信治さん(株式会社すくらんぶる代表)からも話を聞いた。 【写真】懐かしすぎる!岡八朗、花紀京、間寛平、木村進… ーやめよッカナキャンペーン当時の状況は? やなぎ:(新喜劇の前の)漫才がすんだら客は帰るのよ。せかやら、新喜劇ブームは去ったなと思った。お客さんがもう入らへんから京都花月がなくなり、うめだ花月もなくなった。そういう大きな劇場ではあかんでってなってきた。 寛平:最後になんばグランド花月ができたでしょ。もうここは新喜劇を出すなと言われてね。その時の会長が、あんまり新喜劇を好きじゃなかったんですよ。 だから僕らは地方営業へ。「やめよッカナ? キャンペーン」のときやったんで、テレビが追っかけてくるんです。先輩の原(哲男)さんなんかは、新喜劇が終わるとずっと部屋にいるんです。タバコを吸う人で、窓に向かって煙をふいているところを、バチーっと撮られる。 やなぎ:悲哀でしょ。 寛平:なんでこんなことされなあかんのやろと思うてましたね。でも一年ほど経ったらお客さんの中から「なんで新喜劇ないの」って言う人も出てきた。 そしたら会社の方が「ちょっと出てもらわれへんやろか」って頼みに来たんですよ。それでわかりました言うて、出るようになったんですが……いろいろあって僕は東京に行った。 やなぎ:僕はその頃、八朗兄さんとお芝居で全国を回ってたね。 ・・・・・
「もう若い子を集めるしかない」
裏方の立場からの目からは「やめよッカナ? キャンペーン」はどう見えていたのだろうか。 岸村:僕が吉本さんで仕事をするようになったのは、元会長の大﨑(洋)さんに呼ばれてからです。二丁目劇場を作るから大道具をせいと言われて。それでダウンタウンの『4時ですよーだ』をするようになったのが最初の経緯。 二丁目劇場が3年ほど経って、ダウンタウンは東京に行った。大﨑さんも東京に行くのかと思っていたら、大阪に残れと言われたらしく、「やめよッカナ? キャンペーン」の責任者になったんですよ。 ーその頃の状況は? 岸村:大御所の人が引退されて、新喜劇の座員も契約解雇になって、一からの出直しになったんですよ。だから余計に客が減ってしまった。こんな状態でどうするんだろうと思いましたね。大﨑さんも、そうとう悩まれたとは思いますね。目標達成できなかったら、本当に新喜劇をやめるとおっしゃられていた。 もう若い子を集めるしかないとなって、二丁目で頑張っていた今田(耕司)とか東野(幸治)とか板尾(創路)とか、キム兄とかほんこんとかが新喜劇に出た。ただラッキーなことに、毎日放送さんはずっとあきらめずにオンエアしてくれていた。あれが大きかったと思う。さらに若い座長が育ってきて、何人も座長が増えていって、週ごとにパターンができてきて、それでお客さんが戻ってきたのではないかと思います。 ・・・・・ テコ入れに成功し、観客18万人の動員を達成した。新喜劇は命からがら、存亡の危機を乗り越えた。その後、低迷していた新喜劇は息を吹き返した。石田靖、内場勝則、辻本茂雄が座長となり、人気を集めるように。みうらジュンプロデュースの『よしもとギャグ100連発』が大ヒットした。 さらには入団五年目という異例のスピードで、小籔千豊が座長に就任し、新喜劇の知名度を全国的に高めた。そこに川畑康史が加わり、盤石の体制となった。