14歳で親元を離れ演歌歌手「香田晋」に...僧侶となった今、振り返る“波乱万丈な半生”
厳しくも愛情に満ちた師匠のもとでの修行
――そこからは、船村先生のもとで歌のレッスンを? 【徹心】それが、違うんです。僕の役割はひたすら「家事」。朝5時に起きて、広大な庭を掃き、料理、洗濯、買い物、掃除、先生のかばん持ち、また料理......という毎日です。 ――まるで、修行僧のような。 【徹心】まさにそうです。船村一門の修行は厳しいので有名で、業界では「演歌界の永平寺」と言われるくらい(笑)。ことによると、永平寺のお坊様よりハードだったかもしれません。 何しろ、睡眠時間が3時間以下。先生が深夜までお酒を召し上がるので、僕の就寝は2時、3時になります。しかも先生はとても厳しい方で、破門されたり、耐えかねて辞めていった弟子も数知れず。僕も何度か、「出ていけ」と言われましたよ。 ――その言葉通り、すぐ退散したくなりそうですが。 【徹心】いいえ、必死で土下座して許していただきました。そのとき、考えていたことは二つ。一つは「帰るところはない」ということ。そしてもう一つは「夢」です。歌手になるという夢のためなら、何でも耐えられました。 ――それにしても、なぜ歌手になるための修行が、歌ではなく家事だったのでしょう。 【徹心】テクニックではなく「心」を教わっていたのだと、後になってわかりました。庭のツツジの前で、先生がおっしゃったことがあるんです。「来年もキレイに咲いてほしいだろう? その思いを込めて肥料をあげなさい」と。 そのツツジ、500株あるんですよ(笑)。これは大変だ......と青ざめつつも「来年もよろしく」と語りかけながら世話をしたら、翌年、見事に咲いてくれました。 今思えば、愛情を注げば愛情が帰ってくるということを、先生ご自身も愛情をこめて、教えてくださっていたんですね。
あれほど好きだった歌が歌えなくなった
――その後、21歳でデビューを果たされました。 【徹心】入門時に「修行期間は10年」と言われていたので、こんなに早くていいのか、と戸惑いました。でも、夢がかなった喜びもひとしお。一門の先達である北島三郎さんや鳥羽一郎さんのような大歌手になるぞ、と志を新たにしました。 ――デビューの年には日本レコード大賞新人賞を受賞、5年後には紅白歌合戦に出場。まさに、志した道をまっすぐ進まれましたね。 【徹心】その道は、10数年間は「まっすぐ」でした。しかし35歳頃から、おかしいと感じ始めました。なぜか、バラエティ番組の仕事が増えていったのです。最初は歌の宣伝のために出演するのですが、次第に歌と関係のないことを求められ、それがエンドレスで続く。違和感がどんどん募りました。 ――00年代、「おバカタレント」として人気を博されていましたね。 【徹心】「二度と呼ばれないように」と思ってわざとめちゃくちゃな発言をした結果、逆に面白がられてしまいました。歌の仕事も以前と同じペースでしていましたが、演歌ファンの方々を除いて、世の大半の認知は「香田晋=バラエティタレント」になっていく。思いとはまるで違う方向に、引きずられていきました。 ――本業とバラエティを両方となると、忙しさも尋常でないのでは? 【徹心】ええ、とにかく忙しくて、文字通り「心がない」状態でした。すると、あんなに好きだった歌が、好きでなくなってくるんです。気持ちが入らないまま、ただこなすだけ。一番つらかったのはそこでした。楽しみに来てくださったお客様に、心の入っていない歌をお聞かせするなんて、まるで詐欺じゃないか、と。 ――修行時代に教わったこととは、逆の状態に。 【徹心】修行時代を思い出しては、焦りと自責でいっぱいになりました。あの頃もハードだったけれど、自分の気持ちにウソはついていなかった。だから乗り切れた。 でも今はどうだろう、いつまでこれが続くのだろう、きっと今後も変わらない......と思ったとき、ついに声が出なくなりました。喉をグーッと絞められているような状態になって、歌えないんです。精神が限界に達したんですね。