【仰天野球㊙史】消えゆくベーブ・ルース「日本初本塁打」のナゾ…地方の山奥球場で描いた120m級の特大アーチ
【仰天野球㊙史】#6 1934(昭和9)年11月2日、横浜埠頭に着いたエンプレス・オブ・ジャパン号から大柄な男が降り立った。 【写真】前代未聞の3重契約となった「黒バットの南村」…趣味は論語にクラシック、90歳の誕生日に亡くなった 日米野球で来日したベーブ・ルースである。世紀のスラッガーにファンは興奮し、拍手と歓声で迎えた。 ルースといえばホームラン。謎がある。 「日本で第1号はどこで打ったのか」 ほとんど知られていない。初戦の神宮でも次の函館でも不発だった。仙台でやっと打った。仙台も市内ではなく、八木山(やぎやま)球場という山奥の球場だった。伊達政宗も驚く120メートル級のアーチだったという。30年ほど前、ルースを目撃したファンに「とても大きな人で大きなホームランだった」と聞いた。 ルースはそこで第1、2号を放った。現在、八木山球場は公園になっており、ルースが打ち込んだところに寂しく銅像が建っている。その歴史と銅像の存在をどれだけの野球ファンが知っているのだろう。ルースによってプロ野球が始まったのに、ルースの名前を使うことがあっても、日本球界は歴史を放りっぱなしにしているのはいかがなものか。 ルースは当時、39歳9カ月。超高齢になっていた。このシーズンは22本塁打しか打てなかった。所属するヤンキースは「助監督にならないか」と米国出発前に伝えていた。ところが本人は「監督にしてほしい」と球団に伝えており、拒否すればヤンキースに残れない状況で、日本ではずっと悩んでいた。 そんな精神状態だったところから“函館騒動”を引き起こしている。激しい雨天のため日本は「中止」を申し出たが、ルースは「試合をやる。中止なら次の試合から出ない」と意地を張った。大物のわがままに米国チームは困り切ったそうである。 帰国後、ヤンキースは監督の椅子は出さなかった。翌年2月、球団は「故郷に戻れ」とボストンのブレーブス(現アトランタ)にトレードして決着となった。“打てないルース”は必要なかったのである。 (菅谷齊/東京プロ野球記者OBクラブ会長)