なぜ憲法は「取材の自由」を強く保護するのか? 首都大学東京准教授・木村草太
先日、新潟県のジャーナリスト杉本祐一さんへの旅券返納に関わる憲法問題を論じた(「海外取材の自由と憲法との関係は? 旅券返納命令の憲法論」)。その中で、取材のための海外渡航は、観光のための海外渡航よりも、強く保護される可能性がある、と指摘した。 ところで、なぜ、観光よりも、取材の方が強く保護されるのか、よく分からないと感じた人も多かったのではないか。そこで、本稿では、憲法における報道・取材の自由の位置づけについて、解説してみたい。
1 憲法で強く保護されるかどうかの基準
憲法は、信教の自由、表現の自由、職業選択の自由など、国民が政府に対して行使できる様々な権利を保障している。これらは、憲法で保障されるだけあって、いずれも人が生きるのに欠かせない、大事な権利だ。しかし、一般的な憲法学説や最高裁判例によると、これらの権利の中には、裁判所によって特に強く保護されるものと、それほど強く保護されないものとがある。 では、強く保護されるかどうかは、どのような基準で判断するのか。 普通に考えると、「国民にとって大事かどうか」が基準になりそうだ。もちろん、それも大事な基準だろう。しかし、何を大事な権利だと考えるかは、人によってずいぶん違う。例えば、小説家にとっては、表現の自由はとても大事な権利だろう。しかし、文章を書く機会はなく旅行が生きがいだ、という人にとっては、表現の自由よりも旅行の自由の方が大事だろう。したがって、強く保護されるかどうかは、別の基準で決められねばない。 判断の決め手は、憲法上の権利は「政府に対する」権利であり、憲法は政府の権力濫用を防ぐためにある、という憲法のそもそもの目的にある。すなわち、憲法上の権利の保障の強さは、「それが、政府によって恣意的に制約されやすいものかどうか」によって判断されるのだ。
2 報道の自由はなぜ大切なのか
さて、そういう判断基準で見たとき、報道の自由は、第一級に「恣意的な理由で制約されやすい」権利である。 というのも、政府には、「自分に対する批判を封じたい」、「汚職や不正行為の事実を隠したい」という動機がある。こうした動機で、単なる趣味の観光旅行や、スーパーマーケットの営業を禁じようとすることはあまりないが(禁じても、余計な反感を買うだけで、あまり意味がないだろう)、テレビや新聞の報道を禁じようとすることは、しばしばある。 歴史を振り返っても、イギリス国王、アメリカ合衆国政府、徳川政権、明治政府など、権力者が自分たちを批判する報道に重罰を科したケースは、いくらでもある。当然のことながら、現在の自民党政権にだって、できれば隠したい事実はいろいろあるだろう。「頼むから黙っていてほしい」と苦手意識を持っている評論家や有識者も多いだろう。もちろん、その前の民主党政権だって、その前の自民党政権だって、あるいは、野党各党だって、そういうことはあるはずだ。 しかし、「政府にとって不都合だ」というのは、表現の自由に対する規制を正当化する理由には、およそなりえない。国民が政府をきちんと評価するためには、政府が不都合だと感じる情報も、しっかり国民に伝えねばならない。報道の自由がなければ、健全な民主主義などありえないのだ。 こういうわけで、報道の自由は、他の権利と比べても特に強く保護されなければならない、ということになる。 また、報道をするためには、その前提として取材が不可欠である。「何を報道してもいいです。ただし、〇×大臣の政治資金についての取材をしたら死刑にします」という状況では、まともな報道はできない。取材の自由は、報道の自由と同様に、憲法で強く保護しなければいけない権利だということになろう。このため、憲法21条は、報道の自由とともに、取材の自由をも保護される。