大阪万博、500日前にこの状態で本当に開催できるのか(後編) 「万博は儲かるという意識を捨てる」「熱狂は期待すべきではない」…関係者に聞かせたい、専門家2人の貴重な提言
「世界を一望してみたい」という純粋な欲望に突き動かされ、万博の歴史は幕を開けます。第1回万博が開かれたのは1851年のロンドンです。イギリスのような階級社会では、教育機会の乏しい庶民層への効率的な学びの場として展覧会形式を用いる試みが始まっていました。加えて、世界への意識が進む中で「他の国も誘ってみよう」という発想が生まれ、スタートしたのです。 ―その後、いろいろな国が万博の開催に挑んでいきますね。 第1回万博が成功に終わると、アメリカやフランスなども手を挙げるようになりました。日本でも1912年、日ロ戦争の祝勝記念として初の開催計画が持ち上がりましたが、財政難を理由に白紙となった経緯があります。当初、人々を啓蒙する目的で始まった万博でしたが、開催希望国の増加や商業化などから「万博と似て非なるもの」が散見されるようになりました。そこで1928年、万博の意義や目的を定めた国際博覧会条約が成立します。その後の条約改正で、いわゆる万博を指す「国際博覧会」はこのように定義されています。「公衆の教育を主たる目的とする催し」で「文明の必要とするものに応じるために人類が利用できる手段、または人類の活動の1ないし2以上の部門で達成された進歩、もしくはそれらの部門における将来の展望を示すもの」。さらに2025年大阪万博のような大規模万博は5年に一度の開催となりました。
―参加国の数はどのくらいだったのでしょうか。 1960年代に植民地時代が終わりを迎え、欧州各国の「所有物」として参加してきた植民地の国々が単独で出展するようになり、数も増えていきました。1967年カナダ・モントリオール万博では62の国・地域が参加し、過去最多でした。当時は、2025年大阪万博で建設遅れが指摘されている、各国が自前で建てるパビリオン、今日で言う「タイプA」が主流でしたが、独立したての国が経済的な理由で参加を断念しないよう、開催国側が建てた施設を複数で共有する「タイプC」も誕生しました。つまり「国々と植民地からなる世界」ではなく「国々からなる世界」という姿勢を示したのです。1970年大阪万博はその流れを引き継ぐもので、西洋ではない国が開催したという点でも、万博史における意義はとても大きいのです。 ―その後はどのような変遷をたどったのですか。 1994年に開かれた博覧会国際事務局(BIE)総会で発表された決議が転換点となりました。「万博は現代社会のニーズに応えられる今日的なテーマが必要だ」というものです。それまで国同士の競争の場だった万博は、世界共通の課題を解決するために協力するという「課題解決型」へと移り変わります。決議には、現在は当たり前となりつつある「平和と国際協力の精神」という文言も盛り込まれ、植民地時代を経て、文化多様性や国際協力を重視した万博の時代が訪れました。現在は参加国が100を超えることが主流となっています。