『ザ・ウォッチャーズ』に感じるアンバランスさの正体とは 隠された本質部分を考察
『ザ・ウォッチャーズ』にとって最も重要だった“疎外感”の要素
ヨーロッパ各地に一神教であるキリスト教が広がっていく以前、さまざまな地域で民間伝承や自然を信仰の対象とする多神教が根づいていたことは、広く知られている。そしてアイルランドでは、古くはケルト民族による「ケルト神話」が、土着の伝承とともに独自の発展を遂げ、妖精などの伝説へと繋がっていったと考えられる。 「ケルト神話」では、光や雷鳴、水や動物などの自然を敬い、それぞれに神格化していた。そんな神々への信仰が時代の流れとともに薄れていくことで、アイルランドでは神々の存在が次第に小さくなり、“妖精化”が進んでいったのではないかという説がある。それを信じるなら、アイルランドにおける妖精という存在は、かつて強大な影響力を持っていた神話が、人々の間で小さなものになっていく歴史が象徴されたものだと考えられるのだ。 本作に登場する妖精の伝承と、人間が妖精を虐げるようになっていったという物語は、古来からの教えが廃れていった歴史を示すものであり、消えゆくものに思いを馳せる現代人の一種の郷愁であると理解できる。日本の土着的な信仰と同様、ヨーロッパでは古来より森に神秘性を見出していたところがある。妖精が森に追いやられていったという、本作で描かれる伝承の行方は、まさに研究者的な目線による世界観であるといえよう。 ただ、イシャナ・ナイト・シャマラン監督は、そういった点をなぞりながらも、登場人物の感情の側に、より力点を置いているように感じられる。主人公ミナの幼い頃からの後悔が生み出す孤独や、謎の存在が経験した悲しみなど、“自分が他の者たちとは違う”という意識が生み出す疎外感が、本作にとっては最も重要な要素だったのではないか。 イシャナ・ナイト・シャマラン監督の父親、M・ナイト・シャマランはインドで生まれて間もなくアメリカに移住しているが、自分がよそ者だという意識が常にあったのだという。イシャナ・ナイト・シャマランはその下の世代となるが、だからといって同様の疎外感が全くないといえるだろうか。少なくとも、彼女はそのような父親の姿を見て育ってきたのである。 本作の主人公ミナは、自分の種とは違う存在に“見られること”、そして“望まれるかたちに振る舞うこと”を余儀なくされる。それは、ある文化、環境のなかでマイノリティとされる人々が、日々の出来事のなかで意識せざるを得ない同調的な圧力を表しているのだと考えられる。 本作の構成は、登場人物が生き残ろうとする展開の、さらに先の物語が、時間を取って描かれるところが特徴的だ。シチュエーションスリラーとして完成度を高めるのならば、もっと短くカットした方がスッキリとした展開になり、娯楽のみを求める観客にとっては、より評価されたのかもしれない。 しかし、本作の物語にアイルランドの伝承が関係しているからこそ奥行きが生まれているように、作り手の実感が込められていると考えられる要素が主人公たちの境遇に投影されているからこそ、本作『ザ・ウォッチャーズ』は、深い味わいや、現実に接続された恐怖を感じられる映画になったといえるのである。
小野寺系(k.onodera)