「被災地との温度差、苦しかった」…福島から四国に避難をした私が感じたこと 東日本大震災の経験者を訪ねたら、能登半島地震被災地へのメッセージであふれていた(3)
こうした役割は、外部のボランティアらに全て任せると、経験が地元に残りません。南三陸の元支援員は今、介護職や民生委員として地域福祉を支えています。 能登半島地震の被災地でも仮設や公営住宅への入居が始まります。目の前の被災者支援だけでなく、住民主体となった見守りの仕組みづくりという視点も持ち、長期間の支援に向けて早急に準備する必要があります。 ▽どんな苦境でも土を耕し種をまいてきた 岩手県陸前高田市の農家の菅野剛さん(74) 東日本大震災で大切な仲間を失い、岩手県陸前高田市今泉地区にある3ヘクタールの水田は津波をかぶってがれきに覆われました。避難した住民が戻りたい場所にできるのか。先が見えず、不安でした。 塩害でコメ作り再開には何年もかかると言われていました。しかし地区を見渡せば、津波で漂流したソバや麦の種が花を咲かせている。作物は強い。そう思うと希望が湧き、早くコメ作りをしようと、被災後間もなく、がれきの片付けを始めました。
農機具は全て流失しましたが、仲間と農事組合を結成し、国の補助金で必要なものを購入。新しい土を加え、水の入れ替えを繰り返し、土壌を整えました。 震災を機に化学肥料を一切使わないことにしました。田植えは発災2年後の春で、秋には被災前と同じ約11トンを収穫。一粒一粒が輝いて見えました。 能登でも津波による被害田が多いと聞いています。今は目の前の生活で手いっぱいで、田を見る余裕はないでしょう。ただ、営農できない期間が長引けば、諦めて離農する人が増えるかもしれません。 高齢化や担い手不足の中で、再び農地を戻すのは大変な労力が必要です。東北の被災地も同じ状況でしたが、一歩ずつ進んできました。どんな苦境にも負けず、より良い土を作って種をまいてきたのが私たち農家ですから。能登で営農が再開される日を、心より願っています。