大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」
今年、30歳を迎える大谷翔平世代、いわゆる1994年度生まれの代。振り返れば小・中、高校時代には「大谷以上の怪物」といって差し支えなかった男たちがいた。大谷世代の“天才たち”の人生と、愛憎混じる野球への思い――「大谷に“かなわない”と思わせた」大坂智哉の証言。【全4回の1回目/2~4回も公開中】 【実際の写真】大谷翔平が「彼にはかなわない」と言った…“青森の怪物12歳”、実際の投球シーン。敵なしだった小学から「何をしていたんだろう…」と悔やむ中学、現在まで。“宮城・女川町”を訪ねた最新カットまで一気に見る ◆◆◆ 白いユニフォームにオレンジ色の「55」が映える。その日、お目当ての選手は女川の町民野球場にいた。 仙台駅から仙石線、石巻線と乗り継ぎ、約1時間半で女川駅に到着した。球場はそこから車で約5分のところにあった。 女川は2011年の東日本大震災のとき、もっとも被害の大きかった海沿いの街である。街全体が新しく感じられるのは震災時、あらゆるものが津波の被害に遭い、のちに修復および再建されたからだ。 背番号「55」と言えば、ひと昔前までは巨人、ヤンキースで活躍したスラッガー松井秀喜の象徴だった。だが、令和の世の中においてはヤクルトの村上宗隆だろう。左打席に立つオレンジ色の55番も、さほど上背はないものの、いかつい風貌、筋骨隆々とした体型、そして力感のあるフォームはどことなく村上を想起させた。 その選手こそ17年前、あの大谷翔平にかなわないと思わせたという大坂智哉だった。
諦めか、嫉妬か…同学年に大谷翔平がいること
大谷の同学年に話を聞きたいと思った理由。それは大谷のような偉大過ぎるスターが同じ年齢にいるとはどういうものなのかを聞きたかったからだ。 目標になる程度ならまだ励みになるかもしれないが、大谷の偉大さはどう考えてもそんなにかわいいものではない。野球選手にとっては希望どころか、絶望でしかないのではないか。 私は、大谷とほんの一瞬でもすれ違ったことのある同学年プレイヤーたちに何よりも「大谷を見ていて絶望したことはないのか」と聞きたかった。 勘弁してくれ――。 諦観のような、嫉妬のような、そんな遣り切れない、焼け付くような気持ちを抱えているのではないかと想像したのだ。
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