「歌舞伎揚」の生みの親・齊藤孝喜会長「偲ぶ会」 米菓・菓子業界の関係者ら多数参列
3月20日に88歳で永眠した、米菓「歌舞伎揚」の生みの親・天乃屋の齊藤孝喜(こうき)会長の「偲ぶ会」が7月8日、京王プラザホテル(東京都新宿区)で開かれた。 式典は執り行われず、祭壇中央には笑顔の孝喜氏の写真が飾られ、米菓・菓子業界の関係者ら多数が参列し白いバラを献花した。 会場には数多くのパネルを展示。工場竣工や60周年祝賀会など天乃屋の歴史を伝えるパネルのほか、趣味のゴルフを楽しむ姿や、社員旅行、家族旅行など人柄が伝わるパネルが並べられた。 業界団体の要職も務め「物腰柔らかく、明るくやさしい人」と業界からも慕われた。 会場では「歌舞伎揚と私の人生」と題した動画も放映。「上野駅の改札口は人生の出発口だった」の字幕から半生が綴られる。
齊藤(旧姓:荒井)孝喜氏は、1936年、福島県南会津郡下郷町(しもごうまち)生まれ。 中学卒業後、会津若松にある床屋に丁稚奉公が決まり、電車で奉公先へ向かうも、会津若松駅を乗り過ごし上野駅に降り立つところから「歌舞伎揚」誕生物語は始まる。 自転車の荷台に一斗缶を乗せ、仕入れた甘納豆を東京・世田谷区の住宅地界隈で売り歩く。 このとき同業の齊藤龍雄氏と毎日のように顔を合わせていたよしみで、1953年、ともに立ち上げたのが甘納豆の製造卸・有限会社天乃屋となる。 その後、甘納豆から米菓への転換。1960年、揚げせんべいの製造開始から6年後に「歌舞伎揚」の開発に成功する。 販売は軌道に乗り、スーパーマーケットの勃興にともない、一斗缶で出荷し店頭でバラ売りしていたやり方から、袋入りに変え、やがて顧客ニーズに合わせて現在の個包装タイプへ進化を遂げる。 1984年には、龍雄氏が会長に、孝喜氏が社長に就任。2009年には旭日双光章を受章。 2013年から現職で、孝喜氏の長女の夫である大砂信行社長は「仕事には厳しかったがとにかく周囲を明るくする方で、社内外の方々から慕われていた」と敬う。