「信玄は偉大で勝頼は凡庸」との評価は正しい?なぜ二人は「甲斐」に拠点を置き続けた?新府城に景徳院。甲斐武田終焉の地を本郷和人先生と歩いて見えてきたもの
東京大学・本郷和人先生に連載いただいている『婦人公論.jp』では、先生とのご縁をきっかけに「日本史ツアー」を開催しています。初回「徳川」に続く第2弾のテーマはズバリ「武田」。一泊二日でゆかりの地を巡り、最終目的地として甲斐武田終焉の地・景徳院に向かいました。そこで本記事では、参加者が味わった臨場感と知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けしたいと思います。第三回は「新府城・景徳院」編です。 【写真】勝頼も見ていたに違いない新府城・馬出からの素晴らしい景色 * * * * * * * ◆新府城へ 「日本史ツアー」2日目。後半は信玄の後継者・勝頼の歩みに沿ってツアーは進んでいきます。 バスはまず、韮崎市の新府城跡へ向かいました。 新府城は、躑躅ヶ崎館では敵を防ぎきれないと判断した勝頼が、短期間で築いたとされる新しい拠点です。険しい七里岩と呼ばれる岩盤の上に立地しているうえ、周辺には沢が入り混むなど、かなりの要害地にあります。 馬出し・三日月堀などの迎撃設備が設けられるなど、技巧的な平山城だったとされますが、織田軍らに領地へ攻め込まれて配下の武将が離反した結果、たった数か月で放棄されたという、悲運の城でもあります。 バスを停めて、降りた先で待っていたのは、険しい斜面に作られた長い長い階段。下からは頂上が見えません…。 ようやく階段を登ったころには息も絶え絶え。その防御力の高さを自らのカラダで思い知ることになりました。
◆馬出に圧倒される ぜえぜえ言いながら辿り着いた本丸跡には神社がありました。 周辺を散策しながら「またあの険しい階段を下って戻るのか…」と途方に暮れていると、参加者の一人から「向こうにもっとゆるい散策道がある」との救いの声が! そちらがおそらく本来の登城道だったようですが、実際に歩くと緩やかながら複雑に曲がっており、城のありようをよく伝えてくれました。 さらにずんずん先へ進むと、なんと再現された立派な馬出が! 実はこの馬出、ツアーの行程から抜け落ちていたのですが、ここまで来て見逃すのはあまりにもったいない規模のもの。そこからは雄大な甲府の景色に加え、富士山を拝むことも。 この城に入ったころの勝頼公は、すでに追い込まれていたのかもしれません。でも同時にここからの景色を見て、この国を守りたいという決意をあらたにしていたはず。 実際に現場に来たからこそ、そしてツアー参加者の皆さんと一緒に歩いたからこそ出会えた景色に、心から感動しました。
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