「信玄は偉大で勝頼は凡庸」との評価は正しい?なぜ二人は「甲斐」に拠点を置き続けた?新府城に景徳院。甲斐武田終焉の地を本郷和人先生と歩いて見えてきたもの
◆そして終焉の地・景徳院へ そしてツアー最後に訪問したのが、甲州市にある景徳院です。 あらためて先生の解説を整理すれば、織田軍から猛攻を受けた勝頼は新府城を捨てることになり、重臣の小山田信茂を頼って落ちのびます。 しかし信茂はここに至るまでに反目。勝頼らは真田昌幸の岩櫃城を目指すも、織田軍によって補足。正室・北条夫人や子・信勝とともにこの地で自刃し、甲斐武田は滅亡することに。 なお、新府城から景徳院までの距離は50キロほどあるでしょうか。バスを使ってもなかなかの移動時間を要したうえ、景徳院がなかなかの山中にあることを鑑みるに、なんとしてでも生き延びようとした、勝頼らの強い意志を感じた気がします。 景徳院に到着するころには、やや陽が落ちていたこともあったのでしょうが、あたりはひんやりした空気に包まれていました。 山門をくぐって中に進んでいくと、寺院の裏手に立派な墓石が。写真手前から信勝、真ん中が勝頼、奥が北条夫人の墓でした。
◆信玄と勝頼の違い 参加者からの「なぜ終焉がこの地になったのか?」という質問に対し、先生は武田の菩提寺である天目山栖雲寺が近くにあったからでは、とおっしゃっていました。 かつて幕府から追討された信玄と勝頼の祖先・13代当主の武田信満も、実はこの天目山で自害。その栖雲寺に葬られているそうです。 また小山田信茂は裏切り者として悪名高いけれど、もともと甲斐は穴山や小山田ら領主が強い力を持っていた国で、状況を考えれば、武田を切り捨てても決しておかしくはない、といった説明もありました。「もし岩櫃城までたどり着けたとしても、あの真田昌幸が本当に受け入れたかな…」とも。 墓の周囲には三人が自刃したとされるそれぞれの生害石、さらに三人の遺骸を葬ったとされる地蔵尊なども。なお信勝は当時16歳。北条氏康の娘でもあった北条夫人は、まだ19歳だったと言われています。 甲斐武田家の繁栄から、終焉まで見届けた我々一行。各所ではみな、自然と手を合わせていました。 ここで先生からツアー全体の総括がなされました。 「領地をどんどん広げていた武田であれば、より石高が高かったり、戦いやすい拠点に移ることも可能だったはず。でもしなかった。それは信玄堤に象徴されるように、彼らがこの地や領民を愛していたことの表れのような気がします」 さらに先生は続けます。 「信玄は偉大だけど、凡庸な勝頼が武田を滅ぼした、といった言われ方をしがち。でも、はたしてそうなのか。その足跡をたどって、あらためて二人の評価の差は、ちょっとした積み重ねの違いに過ぎないと感じました。所詮人ひとりは、ちっぽけな存在です。現代を生きる私たちは、ちっぽけ、ということを自覚しながら、ニコニコと楽しく毎日を送れたら、それでいいんじゃないかな」 以上「武田」をテーマとした今回の旅も、学びが多いものになりました。 参加された方々と関係者のみなさん、そして先生、本当にお疲れさまでした。また楽しい旅をご一緒させていただく日を心より楽しみにしております。
「婦人公論.jp」編集部
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