【毎日書評】福沢諭吉から名もなき野球選手まで、日常生活に活かす「哲学」のすすめ
現代はAIすなわち人工知能の時代である。AIは人類に多大な利益をもたらすにちがいないが、人類文明を破壊する危険性を持つ。うまく使いこなせればそれでいいではないか、というのは甘すぎる。その根本原理を知らねばならない。 そうなると、必要になるのは哲学である。物事の根本の原理を追求する哲学である。ところが、多くの人は「てつがく」の「て」の字も知らない。本書を書こうと思いいたったゆえんである。(「まえがき」より) 『1日10分の哲学』(大嶋 仁 著、新潮新書)の冒頭にはこう書かれています。 なお本書でいう哲学は、従来の哲学よりも範囲が広いのだとか。なぜなら生物学や地質学を含めた科学も、あるいは詩歌や演劇も、ときに哲学的な問題を提起していることが少なくないから。なるほど、わかる気がします。 また、本書にはいろいろな哲学者や思想家が登場するが、彼らの言葉をそのまま引用することは避けた。およそこういうことを言っているという程度にし、そこに私流の解釈を加えている。 専門家を自負する方々は「勝手なことを言ってやがる」と目くじらを立てるかも知れないが、本書は一般読者にわかりやすいこと、興味を持ってもらえることを最優先する。読者ひとりひとりに、一日に少しでも考えることをしてもらいたいからである。(「まえがき」より) つまり読者は本書を通じ、哲学の片鱗に触れることができるということ。そしてそこから、(著者がそうであるように)自分なりの解釈を広げていくこともできるわけです。 きょうはそんな本書の第1章「デカルトから大阪人まで 日常生活の哲学」のなかから、興味深いトピックに焦点を当ててみたいと思います。
間違ってもいい、決断したら迷うな
人は誰しもある程度の年齢に達すると、自分の生き方や考え方の基礎を固めたくなるものだと著者は指摘しています。 「そんなことはない、自分はなにも考えずにただがむしゃらに生きている」と反論する方もいらっしゃるかもしれませんが、その「なにも考えずにただがむしゃらに」が、すでにその人の哲学だと解釈することもできるというのです。 だとすれば、ここでいう「哲学」を「生きざま」といいかえることもできそうです。すなわちそれは、「私はこう生きています」という生きざまの表明だということ。 十七世紀のヨーロッパにデカルトという人がいた。この人は近代哲学の創始者と呼ばれ、学問としての哲学を前進させた人である。今日ではいろいろ批判され、それらの批判はたいてい妥当と思われるのだが、なかなか面白い生き方をした人で、彼なりの生き様があったことは確かだ。(12ページより) デカルトは学問のことばかり考えていたわけではなく、軍隊に入った経験もあれば、いろいろな職人と話し合う機会もつくり、広く世の中から学んだ人。それどころか、ひとりの女性をめぐって恋敵と決闘したこともあるというのですから驚きですが、きっとそこには彼なりの哲学があったのでしょう。 では、そんなデカルトの生きざまとはどういうものだったのでしょうか? 彼自身のことばによれば、それは「決断したら迷うな」だったそう。だからこそ、決闘までしたのかもしれません。 デカルトはいう、「森の中で道に迷ったらどうするか。一刻も早く森から出なくてはならないが、道がいくつかあって、どの道を選んでよいかわからない。 そういうとき、自分ならこれと一つ決めて、その道をただひたすら歩む。 正解かどうか、どうせわからないのだから、迷わないほうがいいに決まっている」と。これが彼の生きざま、すなわち哲学である。(12ページより) ちなみにデカルトに関するこのトピックから、話題は“名前を覚えていない”野球選手のことへと話題が移っていきます。(11ページより)