日本の城はあまりにかわいそうだ…短期的な富のために歴史的遺構を奪われた天守から見える残念な景色
■ギリギリ海城の名残をとどめている 藤堂高虎が慶長7年(1602)から、三角州の砂地に築城工事を開始した今治城は、内堀、中堀、外堀と三重の堀で囲まれた輪郭式の城郭で、北側は瀬戸内海に面していた。いまも残されているのは、幅が50~70メートルにおよぶ広い内堀と、それに囲まれた本丸と二の丸だけである。水堀にはいまも海水が引き込まれているため、鯉ではなく鯛が泳いではいるが、海は少し遠くなってしまった。 今治城と同じ伊予に位置する宇和島城も、藤堂高虎の手になる。リアス式海岸である宇和海に突き出た標高77メートルの丘上に、慶長元年(1596)から6年かけて築かれた。 丘陵先端の二方が海に面し、後方三方は海水を引き込んだ水堀に囲まれ、城域が不等辺三角形をした城郭だった。周知のとおり、この丘上には現存12天守のうちのひとつが建つ。だが、堀はすべて埋められ、丘陵の裾を波が洗っていた海もすっかり埋め立てられ、かなり遠ざかってしまった。 それでもこの三城は海までの距離が近く、海城の名残はとどめている。というのも、かつての海城で、その面影をすっかり失っている城が多いのである。 ■高層ビルや住宅で風情が台無しに 大分県大分市の府内城は、水上に浮かぶ姿が格別であることから「白雉城」の別名があった。城の北側と東側の、遠浅の潟に近いところに本丸があり、その外側には城の中心部を守るために、約600メートルにわたって細い帯曲輪が防波堤のようにめぐらされていた。もちろん、帯曲輪の外は海だった。しかし、いまでは海岸線ははるか彼方に遠のいている。 帯曲輪の外側にある狭い水路が海の名残で、その向こうには一面、ビルや住宅が建っている。しかも、埋立地には歴史的景観への配慮がまったくないまま、高層建築が次々と建てられ、城跡を威圧するように睥睨している。 同じ大分県の臼杵城(臼杵市)は、三方が海に囲まれた断崖絶壁の「島城」だった。しかし、その面影がすっかり失われている。 この城は臼杵湾に浮かぶ東西約420メートル、南北約100メートルの丹生島上に築かれ、北、東、南の三方が海に囲まれていた。キリシタン大名としても知られた大友義鎮(宗麟)が築城した当時は、干潮時にだけ西側の砂州が現れて陸地とつながる純然たる島だったが、大友氏の滅亡後、文禄2年(1593)に入城した豊臣系大名の太田一吉が、土づくりだった城を石垣で固めると同時に、西側の砂州を埋め立てて三の丸を整備し、以後は半島に近くなった。しかし、海に突き出した島城であることは、明治を迎えるまで変わらなかった。