日本の城はあまりにかわいそうだ…短期的な富のために歴史的遺構を奪われた天守から見える残念な景色
各地のお城では史実に忠実な建造物の復元や、城域全体の復元整備が進んでいる。歴史評論家の香原斗志さんは「それは大変に良いことだが、整備されるべき面は城外にまで広がるのが理想だ」という――。(第3回) 【画像】独特なビルに囲われ、窮屈そうな九州の名城 ※本稿は、香原斗志『お城の値打ち』(新潮新書)の一部を再編集したものです。 ■日本でいちばん美しい城 高松城、今治城、宇和島城の三城は、一般に日本の三大海城とされている。それぞれについて、かつての海城としての姿と現況を確認してみたい。 生駒親正が天正16年(1588)に築城し、徳川光圀の兄である松平頼重が整備した高松城は、日本最大の海城だったといわれる。そればかりか、日本でいちばん美しい城だったかもしれない。 北面は瀬戸内海に接し、海岸からそびえ、その裾を波が洗う石垣上には二重や三重の櫓が並び、それらは白い土塀で結ばれていた。また、海水を引き入れた広い水堀が城内をくまなくめぐっていた。 明治になってからのものだが、「讃州讃岐は高松様の城が見えます波の上」という民謡のくだりもある。事実、海上から眺めれば、波の向こうに建ち並ぶ櫓と、その奥にそびえる三重四階の天守が望まれたはずで、ヴェネツィアのサン・マルコ広場を海上から眺めた光景とくらべたくなる。 現在も水堀には海水が引き入れられ、鯛が泳いでいる。だが、周囲は埋め立てが進み、城の中心部こそ海と近いが、石垣と海をへだてて水城通りと呼ばれる車道がとおされ、フェリー乗り場がもうけられている。 北の丸の最北端には三重の月見櫓と水手御門が現存する。月見櫓は本来、船の出入りを監視する「着見櫓」だったといわれ、それに連続する水手御門は海に向かって開かれ、参勤交代の際などには、藩主は沖合に停泊する御座船まで、ここから小舟で移動したという。 しかし、いま門の外にあるのは、水も涸れそうな狭い堀である。月見櫓も水手御門も持ち場を失ってしまい、博物館の展示物のようになっているのが惜しまれる。