映画『ロボット・ドリームズ』を徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが、過去の思い出と共に歩む“大人な人生”の豊かさについて語る
パブロ・ベルヘル監督が自身が過ごした80年代のニューヨークを舞台に、ひとりぼっちで暮らす犬とロボットの友情を台詞やナレーションなしで描き、第96回アカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされた『ロボット・ドリームズ』がついに公開となった。ニューヨーク、マンハッタンで孤独を感じながら暮らすドッグと、彼が通販番組で購入したロボットとの友情が描かれる本作。ドッグとロボットは一緒に映画を観たり、音楽を聴きながら街を散歩したりと友情を深めて行くが、夏に出かけた海水浴場でロボットは錆びつき動けなくなってしまう。ロボットを修理しようと奮闘するドッグだったが、シーズンオフになった海水浴場は閉鎖され、2人は離ればなれに…。 【写真を見る】ポップミュージックが彩る孤独なドッグとロボの“大人なラスト”に驚愕! 本作は、強い共感と共に我々の心を哀愁で包み込む。いまはもう連絡を取らなくなってしまった友人や、二度と会うことのできないあの人との日々を思い出さずにはいられないはず。今回、なかなか前に進むことのできない孤独な心に寄り添う本作に強く共感したという、エッセイ本「悔しみノート」の著者、梨うまいが熱いレビューを寄稿。様々な思いを抱えながら過去と一緒に人生を歩んでいくことの豊かさについて綴ってもらった。 ※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。 ■どうしてみんな大人になれるんだろう…孤独なドッグに共感 友人から結婚の報告を受けた夜、私は悲しくて泣いた。床にへばりついて涙しながら、内心そんな自分に引いていた。でもだって本気で悲しかったから。大事な友達が幸せになってくれて嬉しい、なんて気持ち、圧倒的な悲しみの嵐を前にして、遠い彼方へ吹き飛んでしまった。私と友人の人生はこうして次第に遠のいて、あっという間に“他人同士”になってしまうのだろうと直感し、ただただ寂しくて、悲しかったのだ。我ながら子どもじみていて情けない。 一体いつまで私は子どもなんだろう。いやむしろ、どうしてみんなは大人になれているんだろう。私は私でいるだけなのに、どんどんひとりぼっちになるみたい。もうこれ以上置いて行かれたくない。どうにかして地球の自転が止まらんものかと、ささやかな抵抗としてしばらく床にへばりつきつづけた。『ロボット・ドリームズ』の冒頭、部屋の電気もつけずテレビの明かりだけで夜を過ごすドッグの姿に、孤独感でギリギリと締め付けられて泣いたその日を思い出さずにはいられなかった。 ドッグが暮らす部屋の様子から察するに、彼は“こっち側”のタイプである。棚にはカメラとフォトアルバム、パズルが並び、壁には映画『ヨーヨー』(64)のポスター。ベッドサイドに並べられたフィギュア、極めつけのピンク・フロイド!あなた、ひとり好きで凝り性、多趣味、オタク気質で好みはややマイナー傾向……ですね?握手しようぜ、同類。同類だからこそ、同類だと思われたくない気持ちも分かるが、自室に『ゴーストワールド』(01)のフライヤーを貼っているニンゲンとしては、もう分かりみしかない。特にピンク・フロイドがツボです。少なくとも君はとっつきやすい奴じゃあない。 私は自分のとっつきにくさを自覚している。でも好みや主張を曲げてまで人と付き合う必要はないと思っていたので、友人は決して多くない。少しでも違うな、と感じると自ら離れてしまうこともあった。そうして自分勝手に過ごしているうちに、周囲はそれぞれに他者と関係をきちんと構築し、いつの間にやら生涯のパートナーにまで到達していた。必要がないからひとりになっていたつもりだが“必要とされてないのは自分だったのでは?”ふと幸せそうな他人が目に入ると、そうして普段から背負っているはずの孤独が急に重くのしかかる。体感的には子泣き爺ですね。子泣き爺背負ったことないけど。 さすがに子泣き爺の例えはドッグに通じないとは思うが、ふとした瞬間感じる孤独の苦しさや、自分だけいつまでも子どもみたいな感覚は分かり合えるんじゃないか。台詞はなくとも、緻密に描かれた背景がそこまで想像させてくれる。 ■80年代ポップカルチャーが彩る希望を持ち続けさせてくれる世界観 どの場面でも一時停止してまじまじと見たくなるほど描き込まれており、80年代のNYという舞台設定から、キース・ヘリングやバスキアなど当時のポップカルチャーが散見されるのもそれだけでワクワクする。あれもこれもと目移りしているうちにストーリーが進んでしまうので、一度最後まで観て再度頭から観直してみた。するとどうだろう、物語の後半で活躍するラスカルおじさんが、序盤で既に登場しているではないか!えー!全然気づかなかった!いや、一回目ではこの時点でラスカルおじさんをメインキャラクターとして認識していないので気が付かなくても無理はないのだが。ともかく観るたびに新たな発見がある。こういうの大好き。 これらは観客を挑発するような伏線ではなく、細やかな遊び心だ。隅々にまで施されたあたたかいユーモアのおかげで、ロボの足をちょん切ってしまうウサギのボート隊も、ドッグにしつこく意地悪をしてくるアリクイカップルも、憎たらしいがどこか嫌いになれない。だから、ロボとドッグが離れ離れの時を過ごす長い間も、きっとふたりはまた巡り合い元通りの日常を送るはずだと希望を持って観ていられた。 再会の夢をみては醒め、夢をみては醒め――その夢が重なるごとに切実に、“自分は相手に忘れ去られてしまうのではないか”という悲嘆の色を帯びていっても、私はまだ楽観し続けていた。しかしその希望は、スクラップの山に放り投げられてバラバラになったロボと一緒に、あっさりと打ち砕かれる。あまりの呆気なさに唖然としてしまった。あれ?思ってたのと違うぞ……。 ■いつまで夢みてるの?シビアな現実を突きつけるロボットとの友情物語 ロボットとの友情物語。そのいかにも子供向けの設定に、どうやら私は胡坐をかいていたようだ。お菓子みたいに味わい慣れたハッピーエンドで幕を閉じるに違いないと、高をくくっていたのだ。 ドッグの寝室に飾られたフィギュアは、マジンガーZと「スター・ウォーズ」のC-3PO、R2-D2。中央のキャラクターは『禁断の惑星』(56)に登場する万能ロボット、ロビー。おそらくドッグは、幼いころからロボットに憧れを持ち、“ロボットとの友情”を夢みて生きてきたのだろう。「ドラえもん」育ちの私には想像に難くない感覚だが、そうでもない人達もいる。むしろたぶん、そうでもない人達の方が多い。作中でも、ロボの腕をつり革代わりにするモグラや、友達ロボットを叩いて遊ぶヒツジなど、ロボットに人格を見出さず、“道具”扱いするキャラクターが序盤からしっかり存在している。「いい歳して、いつまで夢みてるの?」かわいらしい絵柄とは反対に、そんな現実が淡々と、シビアに示されていたのだ。 この映画は、子ども向けの甘いお菓子なんかではなかった。だからロボは鉄くずとして売り飛ばされ、バラバラのスクラップにされてしまったのだ。ひどい!なんてことを!とまっすぐ怒れるほど子どもでもないから始末が悪い。世の中、いつでも尊重してもらえる訳ではないと知っているくらいには中途半端に大人なのだ。それはきっとドッグも同じで、子どもじみた趣味だと笑われることも承知していたから、フィギュアをあえてベッドサイドに飾っていたのではないか。 でも、大切なものを抱きしめたまま生きたいじゃないか。それは手放すべき“子どもっぽさ”じゃなくて、手放してはいけない“自分らしさ”だと思っているし……そう思いたい。 甘ったれた考えだったろうか?このままドッグとロボは出会えないまま、いつかドッグはロボとの日々もあっさり忘れ去ってしまうんだろうか。そんな悲しい結末が訪れるんだったら耐えられない。大切にしていたものを忘れていくことが“大人になる”ってことなんだったら、やっぱり私は大人になれないままでいい。 ■こういう大人になりたい!小粋で大人な理想像、ラスカル そんな絶望をすくいあげてくれるのが、我らのラスカルおじさんである。ポケットにはチュッパチャプス、趣味は機械いじり全般、お気に入りの曲はウィリアム・ベルの「Happy」。まさに子ども心を持ちつつも、ちゃんと小粋で大人な理想像。なんというか、めっちゃ所ジョージ。こういう大人に、私はなりたい。 あまりに憧れてしまったものだから、久しぶりにチュッパチャプスを買ってみた。お会計の時、小さなバーコードをピッとするのに店員さんが苦労していて申し訳なかった。はて、前からこんなサイズだったかしら。飴が小さくなったのか、私が大きくなったのか……。後者だと思うことにしよう。大人になることに切ない体験はつきものなのかもしれないけれど、ラスカルおじさんを見ていると、それって別に悪いことじゃないのかなと思える。彼は確かにひとりだが、なぜだかいつも“Happy”に見えるのだ。 ラスカルおじさんも、スクラップ置き場でワニくんが出してきたロボの頭部を見てギョッとしたあたり、ドッグと同じようにロボットに愛情を持っている大人のようだ。その暮らしぶりを見るに、多趣味で凝り性なところもドッグと共通している。自立して生活しているが、誰か特段親しい友人の姿も、家族の姿も見えないので、彼もまた、他人から言わせてみれば“孤独”なのかもしれない。ではそれでも“可哀想”には映らない彼は、ドッグと何が違うのか。そのヒントは、ドッグとロボの物語がたどり着くラストと、印象的にリフレインする楽曲たちにある。 ■ふたりの思い出をいつまでも彩り続ける「September」 作中に登場する既存のポップミュージックは、当時のNYを表現しながらもキャラクターやエピソードごとに意図的に使い分けられている。この効果、想像以上に威力がある。 というのも、これも2回目の鑑賞時に気が付いたのだが、ドッグとロボが過ごすあの幸せで楽しい時間はたったの前半20分ほどでしかないのだ。み、短い!!離れ離れになってからの時間の方が圧倒的に長いではないか。しかしアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「September」が常にふたりの時間を彩っていて、さらにその後のシーンで幾度もロボが恋しそうに口笛で歌うものだから、短時間で描かれたエピソードとは思えないほど印象強く、鮮明に残っている。 この曲の歌詞は恋人たちが付き合いはじめた9月を振り返る内容でありつつ、いうまでもなくドッグとロボが過ごした日々とリンクしており、ほとんどふたりの思い出そのものと言っていい。 そしてラスカルおじさんお気に入りの曲であり、ロボと過ごす日常のシーンでも流れるのがウィリアム・ベルの「Happy」。「Happy,I’m so happy」と繰り返されるフレーズ。なぜそんなにハッピーなのかというと「My baby put some love on me」「The girl makes me happy」――彼女の与えた愛が、彼女の存在そのものが彼に「自分は世界一の幸せ者だ」と言わしめている。 こちらもまた恋愛ソングだが、この際愛の種類は重要ではない。ロボにとって、この曲はラスカルおじさんとの思い出の曲となっているだろう。だが、ラスカルおじさんはロボと出会う前からこの曲がお気に入りでよく聴いていているような描写がある。もしかしたらラスカルおじさんは、自分と出会い、人生に愛をもたらしてくれた“彼女”にあたる誰かとの思い出を重ねて聴いているのかもしれない。 ■思い出の曲にのせ、新たな出会いと日々を塗り重ねて生きていく 本作ラストのシークエンス、この2つの楽曲がドッグとロボ、ロボとラスカルおじさんの関係を象徴して交差する。 ロボの胸には、ロボ自身のお気に入りのプレイリストと、ラスカルおじさんのお気に入りのプレイリスト。すなわち、彼の中にはドッグとの思い出も、ラスカルおじさんとの思い出も収められているのだ。ロボはもう、ドッグと出会った頃のロボではない。過去の思い出そのままに、全てを元に戻すことは出来ない。ただ、時は過ぎ去ったのではなく、胸の中で重なっている。 「今も変わらず、君のことを想っているよ。」そんな気持ちを届けるように大音量で響かせる「September」。ドッグとロボがそれぞれ踊るシーンには思わず涙した。今はもう会えなくても、たとえ過去の思い出でも、友情という名の愛は変わらず温かく、いつでも手をとり合って踊ることができるのだ。だとすれば、何が悲しいっていうんだ?長い人生の中で、君と出会って君と過ごした。それだけで充分“Happy”じゃないか。 ここで終わっても良いくらいだが、さらにドッグと新しい友達ロボット、ロボとラスカルおじさんがそれぞれに踊るところまで描いてエンドロールを迎えるのがこの映画の本当に素敵なところだ。ドッグとロボの思い出の曲であった「September」は、このシーンがあることでふたりだけの閉じられた曲ではなくなり、それぞれの新たな出会いと日々も塗り重ねられていく。 やがてこの曲はふたりにとって、ラスカルおじさんにおける「Happy」と同じような存在になるのだろうなと予感させるのだ。そして同時に、また別の曲も各々のリストに追加されていくような、そんな出会いのある人生が続いていくのだと希望的な未来を期待させてくれる。途中、あっさりと疎遠になってしまったダックとも、もしかしたらふいに交流が再開するかも。ね、手紙の返事を書いてみたら?案外首を長くして待っているかもよ。心の中でドッグを励ましながら、どの口が言っとるんじゃ、とも思った。 結婚報告で勝手に置いていかれたような気になってメソメソ泣いていたのはこの私です。何をそんなに悲観することがあったのか。振り返れば友人と過ごした日々の色は変わらず、私の人生を彩ってくれている。 エンドロールを最後まで見届けて、「September」を流しながらひとり、部屋で踊った。Do you remember――思い返してみれば、特にはっきりとした理由もなく疎遠になってしまった人もいる。楽しい思い出があるだけに、顔を思い浮かべると寂しい気持ちになるのもまた事実だ。だけど共に過ごした日々をじっくり思い返してみれば、くだらなくも愛おしいあれやこれやが浮かんできて、無意識に笑っていた。 もう簡単に会えないことも、昔のままに戻れないことも分かっているけど、君がどこかで幸せに過ごしていてくれたら嬉しい。そしてできれば、日々を重ねた先でまたいつか、人生が交わる日があったらもっと嬉しい。床にへばりついて泣く日があっても、こうして思い出と手をとりあって、孤独とだって踊ってみせましょう。過去を手放すことじゃなく、過去と共に歩くことで私はきっと大人になれる。 文/梨うまい