大ブレイクも「多忙で心を亡くした」大河内志保 プロアスリートとの結婚生活が「食治の学び」の出発点
10代でデビューしたタレントの大河内志保さん。現在は食のスペシャリストとして活躍の場を広げていますが、転機となったのは芸能界引退の決断に至った、新庄剛志さんとの出会いでした。大河内さんが、食べ物で健康を整える「食治」の考えに至った経緯を伺いました。(全2回中の1回) 【写真】「何頭身ですか?」JALキャンペーンガールに選ばれた当時 脚がきれいすぎる大河内志保さん(全8枚)
■クラリオンガールに抜擢され多忙を極めたモデル時代 ── 1990年、JALのキャンペーンガールに選ばれたことがデビューのきっかけとなりました。以前からモデルに興味があったのでしょうか?
大河内さん:もともと「モデルになりたい」と考えたことは一度もなく、高校卒業後は、渋谷にあるキャビンアテンダントの専門学校に入学しました。夏休みに入ってアルバイトを探しているときに、偶然渋谷でスカウトを受け、その事務所の担当者から「JALのキャンペーンガールに応募してみないか」と提案されてオーディションにエントリーしました。応募してみたところ運よく選出されてモデルとしてデビューすることになりました。
── その翌年にはクラリオンガールにも選ばれて、注目を集めましたね。当時のベリーショートの髪と日焼けした肌が印象的でした。 大河内さん:クラリオンガールに選ばれたのは偶然なんです。本当はほかのモデルの子がオーディションを受ける予定だったのですが、審査当日、新幹線が遅れてしまい間に合わないということに…。「穴を開けるのはもったいない」と、たまたま事務所にいた私に声がかかったんです。 審査を勝ち上がってクラリオンガールに選出されてからは、専属のプロデュースチームが設定した「しなやかな女豹」というキャッチコピーに近づくため、指示されるままに髪を切ってパーマをかけ、日焼けサロンにも定期的に通っていました。ただ、自分のイメージからかけ離れたベリーショートになったときは、ショックのあまり涙が止まりませんでした。その後は、テレビ番組のレギュラー出演や地方巡業など多忙を極め、自分が今どこにいるかもわからないほど。「忙しい」という文字は、「心を亡くす」と書きますが、まさにそんな感じでしたね。