【東日本大震災から13年】「娘が見ていた建物はもうここしか残っていないから」…「民間震災遺構」を残した所有者の「胸中と覚悟」
廃墟ビルで手を合わせる遺族
広大な更地に追悼のサイレンが鳴り渡る中、ただ一つ残った廃墟のビルで3人の遺族が黙祷を捧げていた。手を合わせる方向は海とは反対の、かさ上げ地にできた新市街地。50mほど先の、今は法面になっている場所に、かつて市民会館があった。 【写真で見る】陸前高田市の昔日の面影を唯一残す「民間震災遺構」 東日本大震災の津波が襲った時、市職員だった彼らの子供たちはその会館にいた。市の指定避難所になっていたからだ。だが、津波は3階建ての建物をまるごと吞み込み、推定で130~170人が亡くなった──。 震災から13年を迎えた3月11日の午後2時46分。私はこの記事で書いた香川県在住の遺族、藤田敏則さん・英美さん夫妻に同行し、岩手県陸前高田市の「米沢商会ビル」にいた。所有者自身が保存管理する民間震災遺構として知られる建物だ。長女が嫁ぎ、働き暮らしたこの町を毎年訪れる藤田さん夫妻は、もう何年も前から市主催の追悼式典ではなく、ここで慰霊の時を迎えている。 「娘が生前に見ていた建物が、元の場所に残っているのはもうここしかないから。僕らは震災前の陸前高田に2回しか来たことがなく、以前の町並みをほとんど知らない。このビルは旧市街地の風景を想像する唯一の手掛かりなんです」 そう語る藤田さん夫妻と一緒にいたのは戸羽初枝さん(62)。市の農林課勤務だった長男の究(きわむ)さん(当時24)と市教育委員会の非常勤職員だった長女の杏(あんず)さん(当時23)を一度に亡くした。
記憶を呼び起こす拠り所
究さんはあの日、市民会館への避難誘導を手伝っていた。終われば消防団の仕事に向かうつもりだったことが同僚の話からわかっている。杏さんは職場が市民会館だった。市立小中学校の図書館を一手に管理する司書として採用され3年目。「図書教育相談員」の名刺が入った、母と揃いの名刺入れが津波跡から見つかった。 「娘は23歳の誕生日でした。学校図書館のデータベースを作ったりして、とても忙しかったみたいですけど仕事は充実し、はりきって働いていました。職場のあった市民会館って高田の人間が生まれてから死ぬまで使う、一番なじみ深い場所だったんですよ。 乳幼児健診から始まって、劇や芸術観賞会とか、いろんな学校行事のたびに行く。成人式の会場にもなるし、結婚式をする人もいました。年寄りになれば高齢者大学や老人クラブがある。窓の形が特徴的で、遠くから見てもすぐわかる高田のシンボル的な建物でした。だから残してほしかったんですけど……」 何よりも市内で最も多くの人が亡くなり、自分の子を含め市職員も大勢犠牲になっている。震災遺構として保存し、被害と教訓を伝えてほしいと戸羽さんは求めたが、市は早々に取り壊しの方針を打ち出し、議論や説明も一切なかった。 一時は訴訟も考えたが、遺族の足並みが揃わず断念。ただ、部材などを持ち帰る許可は得た。考えた末、外壁の一部や玄関の円柱に使われていたタイルを拾い集めることにした。 「市民会館ではいろんな遺品が見つかって、携帯電話だけでも十個以上ありました。他にもカメラ、靴、会館の日報……。だけど一部を除いて、多くは廃棄されてしまった。遺族に渡せるものはないかと考えて、思いついたのがタイルでした。一個ずつ切り離せば、希望する人に配れるから」 香川の藤田さん宅の庭に埋め込まれているタイルは、戸羽さんのこうした強い思いと行動があって救い出されたものだ。遺族は、亡き人につながる「かたちあるもの」を求め、記憶を呼び起こす拠り所とする。 被災の記憶が生々しい頃は「辛い、見たくない」と遺構の解体撤去を望む声も強いが、時が経つにつれて「残したもの」の持つ意味は大きくなっていく。藤田さんと戸羽さんが毎年訪れる米沢商会ビルもそうだ。