「俺は残念 後を頼む」西鉄列車空襲で犠牲になった父の遺言…終戦間際の惨事、浮かび上がる実態
1945年8月8日、福岡県筑紫村(現筑紫野市)で走行中の西日本鉄道の列車が米軍機の空襲を受け、乗車した多くの命が奪われた。公式な記録は残されておらず、長年ベールに包まれていたが、近年の証言調査で犠牲者の一部が特定され、60人余りとみられていた犠牲者数が100人以上だった可能性も出てきた。来年の戦後80年を前に、終戦間際の惨事の実態が少しずつ浮かび上がりつつある。(中尾健) 【写真】「俺は残念 後を頼む」と記された手帳
〈君枝 俺は残念 後を頼む〉
8月下旬、愛知県春日井市の林猛さん(79)は、犠牲となった父・三夫さん(当時25歳)の「遺言」が書き残された手帳を手に「家族に何とか言葉を残したかったのでしょう」と語った。
米軍機が西鉄大牟田線(現天神大牟田線)の筑紫駅周辺で上下線の列車2便に機銃掃射を浴びせた。西鉄が70年代にまとめた資料では64人が即死、100人以上が負傷したとされる。
陸軍兵長だった三夫さんは、45年7月頃から福岡県北部の海岸防衛の任務に就いていた。所属部隊長から遺族に届いた書簡によると、同僚の軍曹と公務で同県久留米市に向かうため、下り列車に乗っていた。負傷者の救助や避難誘導を行っている最中に負傷し、死亡したとみられる。
証言調査を長年続ける筑紫野市教育委員会の職員だった草場啓一さん(68)が三夫さんの犠牲を知ったのは2020年の夏。偶然が重なった結果だった。神社の参拝者に戦後75年のインタビューをした愛知県のテレビ番組で、林さんが「父は福岡で起きた列車の銃撃で亡くなった」と答えたのをネットニュースで見て連絡を取り、自宅を訪ねた。
林さんは取材を受けたのを機に自宅の仏壇を調べ、父の手帳を見つけた。字は薄い鉛筆で書かれていた。手帳に血などが付いていないことから、草場さんは「三夫さんの死の直前に、生き延びた軍曹が言葉を聞き取って書き記したのではないか」と推測する。
「父の生きざまを知りたい」。思いを強くした林さんは同年秋、西鉄電車に乗り、筑紫駅で降りた。草場さんの案内で駅周辺を歩き、列車が銃撃を受けた辺りにたどり着くと、「家族を残して死ぬのは無念だったろう」と涙が止まらなかったという。