[戦国最強合戦決定戦]織田・徳川連合軍が勝利し名門武田家は弱体化した「長篠の戦い」を評価!
全国各地で争乱が相次いだ戦国時代。全国で3000近い合戦があったとされる。ここでは戦国時代の合戦を総合的に評価する! <長篠の戦い>武田勝頼×織田信長・徳川家康 [天正3年(1575)5月21日] ■大量に投入された鉄砲と設楽原に築かれた陣城 武田信玄の死後、徳川家康が武田氏によって奪われていた支城の長篠城を取り戻したところ、奪還に乗り出した武田勝頼(たけだかつより)との争奪戦になったのが、長篠の戦いである。武田軍の数は1万5000、長篠城からの救援要請に応じて出兵してきた織田・徳川連合軍の数は3万8000とされる。 武田軍は、長篠城の周囲に付城を築き、織田・徳川軍は長篠城には接近せず、西方の設楽原(したらがはら)に布陣した。武将の采配を評価すると優良である。 織田・徳川軍は、設楽原に「馬防柵(ばぼうさく)」を構えており、これは実質的な陣城(じんじろ)であった。武田軍は、この陣城を落とせば勝つことになるわけで、戦術としてはどちらも高評価できる。 織田・徳川軍は、このとき鉄砲を大量に投入していた。 敗れた武田氏はやがて衰亡し、織田・徳川連合軍は息を吹き返した。 [評価] 織田信長が鉄砲を大量に投入した合戦であり、使用兵器は抜群。武田勝頼の戦術については、あまり評価することができないが、武田氏はこのあと滅亡まで7年間は存続し続けており、後世への影響力は低い。 監修・文/小和田泰経 歴史人2025年1月号『新発見ランキング』より
歴史人編集部