仁村薫、巨人で苦しんだ六大学の二刀流スターが、移籍先で星野中日のV1に貢献できた理由【逆転プロ野球人生】
自己最多の98試合出場も戦力外
ルーキーイヤーの82年はイースタン・リーグの6月20日ヤクルト戦で実戦初の左打席に立ち、左翼ライナー。しかし、これは右打席で打撃不振に陥ったことによる応急処置で、両打ち挑戦はあくまで球団主導でのことだった。1年目は二軍で打率.219、4本塁打という成績に終わり、週べ83年1月24日号で仁村はこんな本音を語っている。 「たまたま、右打席でスランプになったため、左で打っただけ。そしたら、まわりが勝手にそんな雰囲気になってきた。それでもイースタンの試合で14、15打席ほど左で打って、ヒットは2本ぐらいかな……。早大の先輩でもある松本さんからも“スイッチは大変”と教えられ、もともとボクもその気はなし。で、今は右一本に絞ってます」 さらに打撃の評価を高めた、日米大学野球で放った劇的なホームランについても、「二度とあんないい当たりを打てる自信がなくて悩んだ」という。要は巨人入り後の仁村は、首脳陣の意向と自分の目指す選手像にズレがあり、周囲のやたらと高い評価にも戸惑っていたわけだ。 仁村自身は、「3年だけ待つ」と巨人入りを容認した養豚業を営む父親との約束に、「まず1年目は外野手らしい守備力をつける。2年目はプロの球についていけるバッティングを身につける。そして、3年目にデビュー」という3カ年計画を掲げていた。そして、3年目の夏に一軍でプロ初アーチを放ってみせるのだ。 寮を出て目黒区のマンションを借り、禁煙を掲げて臨んだ4年目には、原辰徳の故障欠場で巡ってきた5月27日広島戦でのスタメン起用に2打席連続アーチで応える。「もう原さんの戻るポジションはありません」と血気盛んな仁村は、85年に自己最多の72試合に出て3本塁打を放った。 『週刊平凡』85年9月6日号では、早大野球部の1学年後輩で俳優の川野太郎と夜の銀座を歩くグラビアが掲載されている。NHK朝のテレビ小説『澪つくし』でブレイクした川野は、この年のオフに高輪プリンスホテルで行われた仁村の結婚式でも挨拶に立った。明るい性格で華やかな交友関係を持つ背番号38は、趣味の音楽鑑賞はクラシックからシャンソンの金子由香利まで幅広く聴き、定期購読雑誌は『財界』。「ボクは野球を天職だとは思ってないんですよ」なんてうそぶき、本棚には経済学や経営学の専門書が並ぶ異色のプロ野球選手でもあった。 当時の巨人外野は主軸のクロマティや吉村、さらにはベテランの松本匡史や若手の駒田徳広らがひしめき合う激戦区だったが、披露宴で王監督が仁村に「代打に終わらぬよう、もっと焦れ」と檄を飛ばし、自宅では新妻がスポンジボールを投げティー打撃に付き合ってくれた。87年には主に代打と守備固めで自己最多の98試合に出場。8月には待望の子宝にも恵まれ、9月7日の大洋戦ではシーズン第1号を放った。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。