仁村薫、巨人で苦しんだ六大学の二刀流スターが、移籍先で星野中日のV1に貢献できた理由【逆転プロ野球人生】
兄を救ったのは中日でプレーする弟
この87年オフに、仁村は巨人から戦力外通告を受けるのである。プロ6年目の打撃成績は、打率.212、1本塁打、8打点。レギュラーだけでなく、控え選手にも組織の新陳代謝のための世代交代は必要だ。98試合は、いわば28歳の仁村に与えられたラストチャンスでもあったのだ。そんな失意の仁村を救ったのは、中日でプレーする弟の徹だった。星野仙一監督は当初、仁村に対して外野の守備固めで獲得に興味は示したものの、兄が同チームにいたら弟の徹がやりにくくなることを危惧していたという。徹は87年に二塁レギュラーを獲得。11本塁打を放った若手のホープである。だが、徹は野球を諦めて家業を継ごうとしていた兄を自ら説得して入団を後押し、名古屋での住まい探しまで付き合った。お互いすぐ行き来できるよう車で10分の距離のマンションである。そうして87年12月15日、中日に「ニムラブラザーズ」が誕生する。 巨人時代の仁村は、理論家の一方でウマの合わないコーチにはいっさい近寄ろうとしない頑固な一面があった。それを早大出身のエリートの驕りと見る向きもあったが、中日では一切のプライドを捨て、「ボクは星野監督に拾われた身。打たなくてはいけない義務があるんだ」と闘将好みのガッツマンへと変貌したのだ。誰よりも早く球場入りして、黙々と走り、特打ちに汗を流す。オープン戦では気持ちが空回りしてまったく打てなかったものの、二軍から這い上がり、石井昭男打撃コーチ補佐と二人三脚で打撃フォームを固め、少ない出場機会で結果を残して代打の切り札へと成り上がっていった。 88年の星野中日は初Vに向けて首位争いを繰り広げていたが、徹が左ヒザの故障から復帰した6月以降、兄が打てば弟も打つニムラブラザーズの活躍がにわかに注目を集める。ツーショットで週べの巻頭カラーグラビアを飾り、『週刊文春』88年9月29日号では、「ドラゴンズ影のMVP・仁村兄弟物語 薫と徹「オレたちの闘い」」という特集記事まで掲載されている。崖っぷちの兄は移籍してすぐ、前所属チームをクビになったにもかかわらず、年俸を前年より100万円上げてくれた星野監督の心遣いを意気に感じて、中日の全員野球に乗り遅れまいとガムシャラにプレーした。 「巨人は毎日投手が変わるだけで、いつも同じ八人で野球をやっていた。そりゃ巨人にいるときも勝つとうれしかった。でもね、ロッカーに帰ってきてタバコを一服すうと、なぜか虚しくなったよ。いったい、オレ、きょうは何をやったんだろ。ただベンチにいただけじゃなかったか、とね。巨人では、ベンチから離れると叱られた。でもね、中日はベンチにいたら使ってくれない。さあ出番だ、とベンチ裏で素振りをやり、気合を高めていかないと使ってくれないんだ」(週刊文春88年9月29日号) 巨人時代は、ほとんど左投手専門で、右投手が投げると素振りよりも、ベンチに残って声を出せと命じられた。オレは声出しをするためにプロになったわけじゃないぞ――。それが、いまや首位チームで、ときにスタメンでお呼びがかかる。プロ入り以来最高のシーズンを過ごした88年は、76試合で打率.287、7本塁打、24打点というキャリアハイの成績を残し星野中日の初Vに貢献してみせた。他の選手の前では弟の徹とはあえて距離を置き、遠征先でも別行動をとるようにしたが、グラウンド上の乱闘となると真っ先に弟の助けにかけつける兄の姿があった。 この2年後、31歳の仁村は早すぎると惜しまれながら、90年限りで現役引退を決意。本拠地最終戦の巨人戦の試合後、背番号31はナインから惜別の胴上げで送り出され、名古屋東急ホテルで開催された「送る会」には星野監督を筆頭に500人もの関係者が集結した。プロ通算15本塁打だが、記録より、記憶に残る明るいキャラクターは地元ファンにも愛され、引退後も名古屋テレビの情報番組でコメンテーター役を務めるほどだった。 巨人で選手生命が終わりかけるも、名古屋で生き返った29歳での逆転野球人生。88年夏、新天地でのV争いの渦中に仁村はこんな言葉を残している。 中日に来て、オレ、生きてるなって思うよ――。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール