夕立に息子の無事願掛けた母 戦意喪失を目的にまかれたビラ 戦後79年―語り継ぐ戦争の記憶④/兵庫・丹波篠山市、丹波市
今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は谷垣悟さん(89)=兵庫県丹波市氷上町稲畑=。 昭和10年1月、多紀郡(現丹波篠山市)八上村小多田の5人兄弟の末っ子として生まれた。祖父が長く務めた村長時代に校舎を建てた八上国民学校に昭和16年4月に入学した。今も使われている八上小校舎だ。 3年生の頃だったか、秋の午後は毎日、田んぼのあぜ道でイナゴ取りをした。一日当たりのノルマがあり、500グラム、1キロと学年によって違った。先生が計量してノルマに満たないと、不足分を取って来るよう指示された。ドラム缶ぐらいある箱型のタンクでゆで上げたイナゴは、体育館で乾燥させた。兵隊の食料になると聞いた。 4年生の頃、次兄が中学を卒業し、満州のハルビンの農業試験場へ出発した。教師だった長兄も一緒に家族で写真を撮った。その後、長兄はすぐ出征。それが最後の家族写真になった。次兄も満州で現地召集となった。長兄はビルマで戦死、次兄は3年間、シベリアで抑留された後、復員した。
誕生日に、母が食卓に雨垂れの3個の小石、煮干しのジャコと小豆をそれぞれ3個並べてくれた。石は、丈夫に育つようにと、ジャコと小豆は、お祝いの尾頭付きと赤飯のつもりだったらしい。今も誕生日が来るたびに当時のことを懐かしく思い出す。 昭和19年ごろの夏から秋だったか、校舎の1階部分が軍隊に接収された。軍靴で歩けるようにわらむしろが敷かれた。軍隊といっても鉄砲は持たず、銃剣術の練習用の木銃を担いでいた。食料事情も良くなかったのだろう。兵隊の古参らしき人たちが田んぼで大きなアオダイショウを捕まえ、三十年式銃剣で調理していた。子ども心に「これじゃ勝てないな」と、戦争の負けを何となく予感したことを覚えている。 松茸だけはたくさん採れた。10月初旬には、自宅の裏山で母に言われて小籠に1杯くらいは簡単に採ってくることができた。松茸の傘に塩を振りかけて炭火の直火で焼いて食べたのが懐かしい。 この頃、集団疎開の生徒が村の神社の社務所に宿泊した。尼崎市の城内国民学校の人たちと聞いた。ろくに暖房もない大部屋に蚊帳をつって寒さに耐えていた。連日のようにB29がゆうゆう北の日本海方向へ飛んで行くのが見えた。時には護衛のグラマンとみられる戦闘機を従えていて、わが軍はどうしようもないんだなと思った。 住民の戦意を喪失させようと、飛行機から大量にまかれたアメリカの宣伝ビラを山で数種類拾った。父は「憲兵に見つかったらとがめられる」と処分するよう言ったが、兄の遺品から、私が拾ったのと同じビラが出てきた。 ビラの一つ、トルーマン大統領からのメッセージは、文語体で読みにくい。「我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し、武器を棄てる迄は断じて中止せず」「無条件降伏は日本國民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず」などと書かれていた。 終戦の詔勅はその日の夕方、近所の家のラジオで聞いた。雑音が大きく、内容はよく理解できなかったが、負けたんだということだけは、兄の説明で分かった。 8月20日ごろ、兄と川でじゃこ取りをしていると、軍刀と拳銃を腰にした将校がわが家の方に歩いて行くのが見えた。南方総軍参謀で、サイゴンで終戦を迎えた叔父、小島純勝陸軍大佐だった。終戦処理命令書受領の任を受け、機体を白色塗装し、翼に緑色の十字を描いたおんぼろの小型飛行機で一時帰国したついでに、家族が疎開していた篠山に立ち寄った。 叔父の夕食に魚を振る舞おうと、兄と魚捕りを続けていると夕立に遭い、ずぶ濡れになった。わが家に入るやいなや、母がものすごい剣幕で「なぜ雨宿りして来なかったのか」と言って怒った。普段は柔和な母のあんな顔を見たのは初めてだった。 母は叔父に、ビルマと満州に徴兵されている2人の息子の安否を尋ねた。叔父から「ビルマは状況が良くない。残念ながら…」と聞かされた母は落胆しながら、わらにもすがる思いで、降り出した夕立の中、「2人の男の子が濡れずに帰ってきたら、きっと長男は生きて帰る」と願掛けをしていたという。「それなのに私たち2人は、母の期待を裏切ってしまった」