増税への怒りが爆発して政府転覆も――私たちはなぜ税金を納めなければならないのか?
「増税クソメガネ」――あの手この手で増税を試みる岸田首相に対して、こんな品のないあだ名がつけられるほど、税金という問題は国民の心に火をつける。 【写真を見る】増税を求められた平民たちの怒りが爆発 “ギロチン処刑”の場面
実際、世界史を振り返れば、租税問題によって政府転覆、さらには国家転覆=革命にまで至った事例は少なくない。極端に言えば、税金こそが歴史を動かしてきたとも言えるだろう。 京都大学教授の諸富徹さんの著書『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮選書)には、税金問題が世界史においていかに重大な位置を占めてきたのかが解説されている。一部を再編集して紹介しよう。 ***
国家にとっての「租税」とは
税金。皆さんはこの言葉から何を連想されるだろうか。 何を買うにつけ毎日のように支払っている消費税、毎月の給与から天引きされたり年度末に収支を申告したりして納めなければならない所得税、あるいは頭の痛い相続税など、いうまでもなく税金には様々な種類がある。 しかし、どんな税金であれ、現代の日本人にとって、それは「仕方なく応じるもの」「できるなら負担を減らしてほしいもの」「何に使われるのか知らないが、でもとにかく納めなければならないもの」といったイメージが強いのではないだろうか。「支払う」というよりも、むしろ「取られる」という受け身の感じ、古い言葉を使うなら「権力者による苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」のイメージである。 税や税金という言葉には、このように消極的・否定的・強制的なニュアンスがつきまとう。ところが、近代ヨーロッパの草創期に目を転じると、様子はすこし違ってくる。たしかに庶民の間には「取られる」という感覚はあった。たとえばイギリスでは17世紀から18世紀にかけて、消費税増税に対する国民の反発は根強かった。 しかし、税金を納めるという行為は、ある意味でもっと積極的・肯定的・自発的なものとして捉えられていたのである。とりわけ市民革命期がそうだった。国家は王のものではなく、市民によって担われるべきものだという認識が一般化してゆく時代にあって、ホッブズやロックといった思想家たちは懸命に「税」の問題を考えた。市民みずからがおたがいに税を負担し合わない限り、近代国家は立ち行かないからである。 「国」というものは「税」なしには生きていけない。しかしながら、国家は自ら税収を生み出すことができない。となると、外から調達しなければならない。つまり、権力によって個人の私有財産に介入し、強制的に課税し徴収せざるを得ない。当たり前といえば当たり前のことだが、これは租税を考えるうえで根本的な問題でもある。 実際、ここから近代の様々な歴史が織りなされてきた。国家による課税は往々にして市民社会の側での抵抗を生み、課税は困難に陥った。暴力や武力によって、強制的に税を徴収することもないわけではなかったが、少なくとも近代国家においてそれは長続きしない。結局、税金は市民社会の同意にもとづいて国家が徴収するほかない。国家がこれに反した場合、市民社会の側で反乱や反対運動が起き、極端な場合は政権転覆や、国家転覆=革命にまで至ってしまう。