古代ローマは「人間」が面白い! 歴史学者がそこに着目してこなかった理由とは。
捨て子・奴隷・落書きを研究する
――近代化や民主主義のお手本としてのヨーロッパ・ギリシアという見方だったのですね。 本村:1960年代の終わり頃に大学に入学した私の世代あたりからは、その感覚も変わってきていたと思います。古代ローマ史の中でも、「光の部分」だけではなくて、人間の経験としての「影の部分」も見ていこうという感じでしょうか。 私の最初の著書『薄闇のローマ世界――嬰児遺棄と奴隷制』(東京大学出版会、1993年)は、捨て子と奴隷という、あんまり表に出てこない世界を扱ったもので、輝かしいだけではなく、といって真っ暗闇でもないローマ世界ということで書名に「薄闇の」とつけたわけですが、指導を受けたギリシア史の伊藤貞夫先生からは「何だね、このタイトルは?」と尋ねられたものです。 ――「人間の歴史」として、より自由な見方が出てきた、ということでしょうか。 本村そうですね。中世史を中心に盛んになった社会史の影響も大きかったと思います。 私の著作でいえば、『ポンペイ・グラフィティ』(中公新書、1996年、現在『古代ポンペイの日常生活――「落書き」でよみがえるローマ人』祥伝社新書、2022年)や、『ローマ人の愛と性』(講談社現代新書、1999年、現在『愛欲のローマ史――変貌する社会の底流』講談社学術文庫、2014年)は、それまでの日本の古代史研究者からはあまり出てこないテーマだったかもしれません。欧米ではすでにそういう研究も進んでいましたから、それを取り入れる自由さが僕らの時代にはあった、ということなのでしょう。 『多神教と一神教――古代地中海世界の宗教ドラマ』(岩波新書、2005年)も、ローマ史やヨーロッパ史を「キリスト教徒の歴史」と捉えるヨーロッパ人にはなかなか触れられないテーマと思いますが、こうした「心性史」的な著作も、僕らの年代の日本だから出せたといえるかもしれません。 心性史というのは、フランスのアナール学派から出てきた見方で、一般の人々がどういう風な感じ方、考え方をしているか、何を信仰し、尊重しているか、その感性や心象を掘り下げていく歴史の捉え方ですが、このシリーズでもこの見方を大きく取り入れています。 ――最近の若い世代の研究は、さらに新しい見方が出てきているのでしょうか。 本村:考古学的な成果を以前より積極的に取り入れていますよね。とにかく現場に行ける、碑文の実物を見ることができるっていうのは大きい。 また、気候変動や自然環境の要素を歴史学に取り入れるのも、最近の動向ですね。大雑把には、古代ギリシア・ローマの発展の背景に気候の温暖化があり、古代末期には寒冷化している――ぐらいのことは前から言われていますが、もっとくわしいデータで科学的な検証がされるようになるでしょう。 こうした視点は、かつて歴史学でもマルクス主義が強かった時代には、「自然決定論」といわれて避けられる傾向にありました。階級闘争や生産関係を歴史の動力と考える唯物史観のなかには、自然環境という観点は組み込みにくかったのです。 ギリシア・ローマ史の中に何を見るかというのは、この50年でだいぶ変わってきているのです。特に日本ではそうですね。