古代ローマは「人間」が面白い! 歴史学者がそこに着目してこなかった理由とは。
ギリシア・ローマはヨーロッパの起源?
――具体的には、ローマ人はどんな点でそれまでの文明に学んでいるのでしょうか。 本村:ローマ人が今に残したものといえば、まずローマ法と建築物といわれますが、それらはローマが初めてではなく、エトルリア人やギリシア人に学んでいたわけです。 ローマ時代の遺跡のコンクリートも、いまの建築学者が見るとすごくよく出来ていて、2000年ももっているわけですが、こうした技術はエトルリアに学んでいる。 ローマ法の最初の「十二表法」を作るときにも、ローマ人はギリシアに使節を送って学んだと伝えられています。話は飛びますが、明治時代に日本の伊藤博文たちがドイツの法学者を訪ねて憲法を学んだ時、そのシュタインという法学者は、これほど熱心に外国に法を学ぼうとした例は、世界史上に一例しかないと言って、ギリシアに学んだローマ人の例をあげています。まるで明治の新生日本が欧米の先進文明を学んだように、ローマ人もまたギリシアに先進文明と法を学ぼうとしたわけです。 こうした直接「学ぶ」ということだけでなく、それまでの地中海世界に蓄積されてきた人類の体験というべきものも大きいでしょう。異文化集団を抱え込んだ広域帝国の統治ということを見ても、ローマが最初なわけではなく、アッシリアやペルシアの事例が「世界帝国の原像」として生きていたのではないでしょうか。 さらに人々の心性のことでいえば、第1巻『神々のささやく世界』で書きましたが、メソポタミアからエジプト、ギリシア、ローマは、いずれも多神教の世界であり、神々と神話の多くを共有していました。それが、この地域をひとつの「地中海世界」と捉えられる理由でもあるのですが、第4巻『辺境の王朝と英雄』で述べたように、ヘレニズム時代のシンクレティズム(宗教融合)によって、東地中海からオリエントの広い地域が、さらに普遍的な精神性をもつようになっていた。ローマ帝国は、その上に広がっていったわけです。 ――日本ではいままで、そうした「ローマ史の見方」というのは、なかったのでしょうか。 本村:日本の大学で、初めて近代歴史学が講座を持った明治時代には、西洋史学っていうのはまず、お手本とする先進国の歴史を学ぶことであって、ギリシア・ローマはその源流としての研究対象だったんですね。その頃には、ヨーロッパ人にとっても自分たちの文明の起源はギリシアにあり、ローマ帝国はヨーロッパの起源だった。 近代史学の基本は西洋史学として生まれたものですから、戦前の大学で学んだ上原専禄(1899-1975)、増田四郎(1908-97)といった日本の西洋史学の先駆者や、私の恩師の弓削達先生(1924-2006)の世代でも、ギリシア・ローマを「西洋史の始まり」としてとらえ、ヨーロッパを中心に歴史を大局的に見るという伝統が生きていたように思います。 それが、戦後になると、「民主主義の源流」として古代ギリシアに学ぶ、という見方が出てくる。われわれ日本人が失敗したのは、民主主義が理解できていなかったからで、西洋の学問をやるには、そこのところに焦点を合わせようというわけです。また、美術史や文化史では、ルネサンス研究の文脈で、古代ギリシアに注目が集まったという面もあります。 このころは、古代ギリシア史の研究者が増えて、東大では20世紀の終わりごろになっても、ローマ史よりもギリシア史の人のほうが多かったくらいです。いまは日本でもヨーロッパでもローマ史の研究者が多くなっています。ローマ史のほうが長くて広いから、ある意味正常なんですが。