外国勢力が突如襲撃!「道長の甥」の藤原隆家はどう戦ったか。九州で「刀伊の入寇」が起きる
そんな隆家の在任中に起こったのが、前述した刀伊の入寇です。侵攻は突然のことであり、九州一帯に大きな危機がやってきました。では、隆家はその危機をどのように乗り切ったのでしょうか。 ■住民たちの悲劇も起きる まず、筑後・肥前・肥後・その他九州の兵士を招集しました(『大鏡』)。大宰府内に勤めている者まで集めて、刀伊と戦わせたのでした。 これには、刀伊もなす術なく、多数の戦死者が出ました。『大鏡』には、隆家は武事には暗いものの、家柄の威光により、この困難を収めたと記されており、隆家を知謀に富んだ人とも評価しています。
隆家は、勇戦した人々の名を記し、朝廷に奏上しました。その結果、大蔵種材は壱岐守に、その子は大宰監に任じられたようです。 一方で、刀伊の入寇は、対馬や壱岐に住んでいた人々に悲劇をもたらしました。刀伊は、彼らを拉致・連行していったのです。拉致された300人の人々は、高麗軍が艦千余隻で刀伊を襲撃したときに、取り返され、無事に故国に帰ることができました。 それに感謝した隆家は高麗の使者に黄金300両を渡して帰したようです。こうした隆家の九州での活躍は、彼が優れた人物であることを示しているでしょう。
隆家には、次のような逸話も存在します。 ある時、花山法皇が、隆家に「いかに、そなたでも、私の門前を通ることはできまい」と仰せになりました。すると、隆家は「この隆家が通れないということがあるでしょうか」と対抗心を示したのです。2人は、通過の日取りを定め、いよいよその日となりました。 隆家は、頑丈な牛車を用意し、美しく飾り立てられた烏帽子・直衣を着用。従者は50から60人はいたようです。 一方、花山法皇方は、勇敢な荒法師や童子など70から80人を招集。彼らに大きな石や長い杖を持たせて備えていました。両方とも、本物の弓矢を用意していなかったのは、せめてもの幸いでした。