「フランス的」と反発された流線型 エンビリコス・ベントレー(1) シャシーは4 1/4リッター
シャシーは4 1/4リッター アクリルで軽量化
新たなベントレーの計画を引き受けたポーランは、歯医者の仕事を終えた夜間に、スタイリングを検討。自宅の机で、流線型のドローイングが描かれた。 1937年11月には、風洞実験用の縮尺モデルが完成。1938年1月に仕上がった原寸大の木製モデルは、エンビリコスだけでなくベントレーの上層部にも感銘を与えた。 必要な保証金がベントレーへ支払われ、メーターはkm/hで指定され、実作がスタート。1938年3月に、4 1/4リッターのシャシーはポフトゥー社へ搬入。ボディは4か月後に完成し、フランスの路上でテスト走行が始まった。 エンビリコスが最終的に支払った金額は、当時で5万9210フラン。特注のコーチビルド・ボディ、2台分の金額だったという。 かくしてエンビリコス・ベントレーは、高速なロードカーとして開発された。キャビンのフロアには毛足の長いカーペットが敷かれ、豪奢なレザー・シートが据えられた。 車重は1565kg。軽いアクリル製ウインドウなどを採用し、通常のベントレー4 1/4リッターより159kgも軽量に仕上がっていた。 ベントレーの技術者、EW.ハイブス氏とWA.ロバートソン氏は、4.25Lの直列6気筒エンジンを改良。圧縮比を8:1へ高め、大型のSUキャブレターを載せ、最高出力を126psから142psへ引き上げた。 ショックアブソーバーとブレーキもアップグレード。トランスミッションには、ギア比が2.87:1のオーバードライブ・トップギアが組まれた。
1949年のル・マン24時間レースへ参戦
完成したエンビリコス・ベントレーは最高速記録へ挑むことになり、フランスのオートドロム・ドゥ・リナ・モンレリへ。ドライバーとしての評価も高かったスリーターがステアリングホイールを握り、非公式だが、172.2km/hの記録を残している。 この能力を知らしめるべく、さらに彼はドイツへ向かい、アウトバーンを全開走行。メルセデス・ベンツが樹立した、平均128.7km/hの記録更新へ挑むものの、天候が悪化し中断された。だが、180km/hで運転するスリーターの様子は写真に残っている。 その後、エンビリコス・ベントレーは英国へ運ばれ、ジョージ・エイストン氏のドライブでブルックランズ・サーキットを走行。路面状態の優れないオーバルコースを周回し、平均183.4km/hを記録している。 しかしエンビリコスは、流線型のベントレーを1年足らずで売却してしまう。速度記録などに駆り出された期間が長かった一方で、オーナー本人は殆ど運転できず、嫌気が差したようだ。 1939年7月22日に購入したのが、レーシングチームのオーナーでドライバーの、HSF.ヘイ氏。直後に第二次世界大戦が勃発し、倉庫へ隠されるが、ブラックアウトされた姿はしばしば英国内で目撃されている。 1949年にル・マン24時間レースが復活すると、ヘイはエンビリコス・ベントレーで参戦。ジャーナリストのトミー・ウィズダム氏をコ・ドライバーに迎え、サルト・サーキットでの長丁場へ挑んだ。 この続きは、エンビリコス・ベントレー(2)にて。
ミック・ウォルシュ(執筆) トニー・ベイカー(撮影) 中嶋健治(翻訳)