【ドキュメンタリー】58年 無罪の先に-袴田事件と再審法- 世紀を超えた冤罪事件が問いかけるもの#1
“後出し”の証拠で死刑判決
事件から半年後。 静岡地方裁判所で始まった公判で、検察は巖の自供に沿って「パジャマを着て犯行に及んだ」と主張した。 しかし、事件発生から1年2カ月後。 現場近くの工場にある味噌樽から血だらけのシャツやズボン、いわゆる“5点の衣類”が見つかる。 衣類を目にした警察は、当時の担当検事に「袴田の裁判に有利になるものか、不利になるものかわからないんですが、今頃になってとんでもないものが出てきてしまった」と伝えた。 ただ、衣類が見つかった味噌樽は事件から4日後に警察が捜索した場所だ。 それ故に事件直後に味噌樽を捜索した元捜査員は「(味噌樽の中に衣類が)あれば、当然、捜索に関わった私どもの目に触れるだろう。味噌タンクから『衣類が出た』と報道で(知った)。誰も教えてくれるわけではない。とんでもないことになった。そんなことあり得るのか?」と当時を回顧。 巖が母に送った手紙にも「絶対に僕の物ではない」(1967年9月)、「警察の捜索に発見されなかった証拠物は当事件と関係ないことは明白です」(1967年12月)と記されている。 だが、静岡地裁はズボンの共布が巖の実家から見つかったことなどを理由に“5点の衣類”を犯行着衣と認定。 言い渡されたのは死刑だ。
カギを握った“ズボン”
弁護団は判決を不服として控訴したが、この中で“5点の衣類”の不自然さに気づいた。 控訴審から弁護人を務める弁護士の福地明人は「袴田さんのところへ面会に行き、『5点の衣類のズボンをあなたにはいてもらおうと思っているんだけれど、どうだろう?』と言ったんです。袴田さんは『福地先生、やってくださいよ』って。『あれは私の物じゃないんだから大丈夫ですよ』っていうんですね。じゃあやってみるか」と巖とのやり取りを明かす。 巖は計3回、東京高裁の裁判官の前でズボンをはこうとしたが、太ももから尻のあたりでつっかえてしまい、いずれも履くことはできなかった。 この頃、巖が兄・茂治に宛てた手紙には「血染めのズボンがはけない者は問題なく白である」「捜査陣の作った物証で陥れられた」(いずれも1975年12月15日)と書かれ、福地も「先生、俺にはけないってことがわかったでしょ?」「こりゃ、何とかなるな」と巖が喜んでいたことを覚えている。 ところが、しばらくして検察が福地のもとに1枚の写真を持ってきた。 ズボンの裏地を写したもので、縫い付けられたタグにはかすかに「B」の文字が確認でき、「これはB体のズボン。B体のズボンということは肥満体のズボンということですよ」と告げる。 そして、検察が提出した証拠をもとに東京高裁はタグの「B」はB体、つまり肥満体であると認定。 ズボンは巖の物で、味噌漬けになったことで縮んだため、はくことができなかったとして控訴を棄却した。 巖は元々プロボクサーで体格がよかったのだ。 さらに、最高裁も上告を棄却したため1980年に死刑が確定。 (テレビ静岡)
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