「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫⑥ 老い先短い男がこの世に遺していた、唯一の未練
「いやいや、そうもいきません。私はしばらくでも俗世間のことに執着すまいと思うわけのある身なのだから、ちょっとした遊びの色恋も遠慮したいのです。自分の心ながら抑えかねる思いにとらわれてしまったら、まったく不本意なことになってしまう」と言うと、 「なんと大げさな。例によってものものしい聖めいた口ぶり、果たしてどうなるのやら見届けたいね」と宮は笑う。 中将は心の内では、あの老女房の弁がほのめかしたことなどが、じわじわと胸に広がり、なんとなく悲しく思えて、うつくしいとか好ましいとか見聞きする姫君たちについて、それほど気になっているわけではないのだった。
十月になって五、六日の頃に、中将は宇治に向かった。 「この季節には何より網代をご覧になるとよろしいですよ」と言う人々もいるが、 「何、氷魚(ひお)ではないが、蜉蝣(ひおむし(かげろう))とはかない命を競う心地で、網代見物でもないだろう」と網代は見ずに、いつものように目立たないようにして出かけていく。身軽に網代車で、縑(かとり(無地の薄い平絹))の直衣(のうし)や指貫(さしぬき)を仕立てさせ、ことさらお忍びらしい恰好(かっこう)である。
八の宮は中将をよろこんで迎え入れ、山里にふさわしいご馳走など、趣向をこらして用意する。日も暮れたので灯火を近づけて、前々から読みかけていた数々の経文の深い意味などを、阿闍梨(あじゃり)にも山寺から下りてきてもらって、講釈をさせる。うとうとすることもなく起きていると、川風がじつに荒々しく吹きつけ、木の葉が風に散る音や、水の流れの響きなど、風情も通り越して、何やらおそろしく、心細い様子である。 ■ずっともの足りなく思っている
もうそろそろ明け方だろうかと思う頃、中将は、姉妹の合奏を聴いた明け方のことを思い出さずにはいられず、琴の音は心に染みるという話をとっかかりのようにして、 「先だって伺った時の、深い霧に迷ってしまった曙に、まことにすばらしい楽の音をほんの少し聴かせていただきました。そのせいでかえってもっと聴きたくなって、ずっともの足りなく思っているのです」と言う。 「俗世間の色にも香にもすっかり未練を捨ててしまってからは、昔聞き覚えたこともすべて忘れてしまいました」と言いながらも、八の宮は女房を呼んで琴(きん(七絃の琴))を持ってこさせ、