トランプ再選の根本にあるもの――「反知性主義」と「不寛容」のアメリカを読み解く
近代啓蒙の誤解
現代人がこのような誤解をしているのは、近代啓蒙主義の浅薄な寛容論しか知らないからだ。だが寛容は、拙著で説明したように、人々が不寛容な暗黒時代だと思い込んでいる中世のカトリック教会でこそ高度に発達した概念であった。神学者トマス・アクィナスによれば、教会はユダヤ人に寛容でなければならない。それは、ユダヤ人を好きになれとか心から愛せよということではない。嫌いでもいい。でも、彼らを尊重して受け入れなさい。彼らを追い出したり、キリスト教を強要したり、暮らしを脅かしたりしてはならない――これが寛容の本義である。 したがって、その受け入れ方はあくまでも限定的である。中心ではなく周縁に置き、排除しないで存在を許容する。寛容は、相手を善と認めることではないし、両手を挙げて大歓迎することでもない。自分の家の居間や寝室にまで迎え入れる必要もない。 誰にだって苦手な相手はいるだろう。それでも礼節を尽くして相手と共存することはできる。もしそこで、「あなたの心の中まで入れ替えて、相手を心から歓迎しなさい」と言われたらどうだろうか。それはかえって「寛容の強制」という不寛容になるだろう。実は、それが西洋諸国が長くイスラム世界に取ってきた態度なのである。 心の中の本音部分を上手に処理する方法が実際の政策に生かされた例もある。カリフォルニア州の移民政策だ。かつて大量に流入する移民に拒否感を抱いていた人々も、”emotional space” と呼ばれる心の余裕をもつことができて変わるのだが、それはここでは論じない。
移民の歴史と現在
マイケル・アントンという保守思想家がいる。第一次トランプ政権下で国家安全保障担当副補佐官などを務め、今次の政権でも政権移行チームに入っている。彼はアメリカ市民権の出生地主義を批判して「アメリカは全人類の共同財産ではない」と論じた。アメリカの富は世界中の人々を引きつける磁石だが、移民は制限されねばならない、と言う。 だが、ここで誰もが不思議に思うだろう。アメリカは建国のはじめから「移民の国」だったのではないか。アントンの答えは「否」である。アメリカは「移民immigrantsの国」ではなく「植民者settlersの国」だ、というのである。植民者たちは、ゼロから出発して町を建設し、お互いに契約を結んで定住地とした。後からやってくる移民たちは、すでに定住した住民の同意がなければその社会に加わることができない。つまり彼らは、彼らが不適当と思う移民を拒否する自由と権利を法律的にも事実的にも有している。 わたしは植民地時代のアメリカを研究対象としてきたが、これを読んで驚愕した。アントンの文章が、四百年前のマサチューセッツ植民地総督ジョン・ウィンスロップの言葉とぴったり一致していたからである。拙著『不寛容論』39頁をご覧いただきたい。 「市民政府は、すべて自由な同意により創設される。何人もわれわれの同意なしにこの地に来て住むことはできない。われわれは、破滅や損壊の危険を招くと思われるものを排除する。これは合法的である。」(John Winthrop, 1637) 初期の植民者たちが不寛容だった理由もよくわかる。彼らは、長い航海の末に新大陸へ辿り着き、家も畑も道路も集会所も、すべて自分たちの手で造らねばならなかった。まさに無から(ex nihilo)の創造である。ようやく生活を整え収穫を喜ぶことができるようになったある日、いきなり見知らぬ人が手ぶらでやってきて、貴重な労働の果実を彼らと平等に享受するとしたら、どうだろうか。 もちろんここには、先住民がいたことや、その後四百年にわたり蓄積された富の偏りが今も差別の溝を広げ続けていることへの視点が付け加えられねばならないだろう。だが少なくとも、厳しい対立で分断された今日の世界には「よい子のお道徳」を超える新しい寛容理解が必要だ、ということはご理解いただけると思う。来たるべき不寛容の時代に備え、拙著が小さなアップデートの機会を提供できればと願っている。 ◎森本あんり(もりもと・あんり)1956年、神奈川県生まれ。東京女子大学学長。国際基督教大学(ICU)卒。東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。国際基督教大学人文科学科教授を経て、現職。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体』(創文社)、『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)、『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)、『不寛容論:アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)、『教養を深める:人間の「芯」のつくり方』(PHP新書)、『魂の教育:よい本は時を超えて人を動かす』(岩波書店)。
森本あんり