トランプ再選の根本にあるもの――「反知性主義」と「不寛容」のアメリカを読み解く
『不寛容論』から見えること
しかし、今回の選挙に関していっそう強く感じられたのは、民主党のもう一つの欺瞞、すなわち移民問題の行方である。これには拙著『不寛容論』が深く関係している。 この4年間に起こったことを振り返ってみよう。「国境に壁を作る」と宣言して実行した第一次トランプ政権が終わり、移民に寛容なバイデン政権が誕生すると、メキシコ国境からの不法越境者数はうなぎ登りに増えていった。当時の世論調査では、共和党支持者の8割以上、民主党支持者でも3割が新政権の移民政策を支持しないと答えている。国境近くの州ではとりわけ不満が大きく、22年9月には、テキサス州知事が百人ほどの不法移民を2台のバスに乗せてハリス副大統領公邸前に送りつけている。バスを降ろされた移民たちは、自分がどこにいるのかすら理解していなかったというが、首都ワシントンで鷹揚な寛容論を説くエリート政治家たちに現実を突きつける効果は大きかった。その後もバイデン政権は流入を絞りつつ容認していたが、ついに今年6月には不法移民の即時送還へと方針を全面転換せざるを得なくなった。移民政策の破綻を認めたのである。 わたしはこれは当然の結果だと思っている。いかなる国家も、無制約に移民を受け入れ続けることはできない。国家資源が無限であるかのような政策は、非現実的な欺瞞である。かつて「歴史の終わり」を論じたフランシス・フクヤマは、今なおリベラリズムの本質的な正当性を信じる一人だが、その彼も国境を守ることは必要不可欠と考えている。市民権をむやみに開放すべきではない。「国境なくして国家なし」というトランプ氏の原則は正しい。
寛容と不寛容
だが、それは不寛容ではないか? その通りである。政治に責任をもつ者は、自分が不寛容と非難されることを引き受けねばならない。なぜなら、寛容は不寛容なしに成立しないからだ。ここに、『不寛容論』の著者としてわたしがどうしても言いたいことがある。 寛容は、相手を百パーセント肯定して受け入れることではない。寛容には肯定と否定の両方が含まれる。というより、相手を否定的に評価することなしに、寛容はあり得ない。「自分はアイスクリームに寛容だ」と威張る人はあまりいないだろう。好きなものに寛容になることはできないのである。つまり寛容とは、まず相手が嫌いだ、という前提があった上で、それでもなおその相手を受け入れることである。できれば相手を締め出したい。関わりたくもない。それをそのまま実行すれば、単なる不寛容だ。だが、その否定的評価を前提した上で、なお相手を部分的に受け入れる。その時はじめて、「寛容」という事態が成立するのである。 つまり寛容とは、相手を下に見て、本当は軽蔑しているのに、あえて恩着せがましく受け入れてやる、ということである。そんな受け入れられ方をしたら、相手だって傷つくだろう。だから現代リベラリズムでは、「寛容などという考えは時代遅れだ、お互いを完全に受け入れて平等な立場になるべきだ」と論じられる。 ここに根本的な誤解がある。寛容とは、そもそも不愉快な話なのだ。そこにはおのずと本音と建前の使い分けがある。本音では嫌いだけど、建前ではよしとする。嫌だけどしかたなく受け入れる。「それは表面だけを取り繕うごまかしだ」と言われるなら、その通りである。それでも、むき出しの暴力対決よりはよい。怒鳴り合うだけのヘイトスピーチよりはよい。どうしても折り合うことのできない原理的な対立がある場面では、それが共存の唯一の道である。拙著がロジャー・ウィリアムズという17世紀の頑固なピューリタンを通して主張したのはこのことだった。