3年かけて探し出されると、東京では衣食住を提供され…「九州に帰したらエンターテインメント界の損失に」赤塚不二夫が語るタモリ上京秘話
『おそ松くん』『天才バカボン』など、「ギャグ漫画」のジャンルを確立した天才漫画家・赤塚不二夫先生。晩年期の赤塚先生を密着取材していたのは、当時新聞社の編集記者だったジャーナリストの山口孝さんです。山口さんは、先生から直接「評伝」の執筆を勧められ、長い時間をかけ『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』を書き上げました。「最後の赤塚番」が語った、知られざる「赤塚不二夫伝」を一部ご紹介します。 【書影】3人の「母」を通して描く、知られざる赤塚不二夫の物語。山口孝『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』 * * * * * * * ◆最初の妻・登茂子との離婚後 糸の切れた凧、自由になった赤塚のハチャメチャな生活は続いていた。 別れてすぐ「名前なんてなんだっていいんだ」と、突然、全雑誌の連載で「山田一郎」と改名する。 仕事は相変わらず忙しかったが、夜も寝ないで、遊んでいた。 翌年3月には『週刊新潮』で美人局スキャンダルが報じられ、やくざから逃げるため約半年、都内に潜伏した。 そんな失敗もなんのその、赤塚の絶頂期は続いた。 11月には、集英社が主催、若手ギャグ漫画家を表彰する『赤塚賞』をスタートさせた。 75年4月から1年間、NHKの、近代の歴史に埋もれた出来事にスポットライトを当てる、硬派の番組『スポットライト』のレギュラー司会者になる。
◆赤塚と出会う前のタモリ 6月には九州からタモリを呼び寄せた。 タモリは45年生まれで福岡県の出身。赤塚とは10歳違いだった。本名は森田一義。早稲田大学時代はサークルの『モダン・ジャズ研究会』に属し、『タモリ』は森田の逆読み、その当時に名付けられたものだった。 72年、ジャズピアニストの山下洋輔トリオが仕事で福岡・博多に行ったとき、ホテルの部屋で、テレビの音を消して時代劇を見ながら、デタラメ韓国語の即興劇で盛り上がっていた。それを、開いていたドアから見ていたタモリが乱入し、独自の即興劇を披露した。 トリオは圧倒され、爆笑となった。帰京した山下が、新宿のバー『ジャックの豆の木』でその話をしたところ、東京に呼ぼうということになった。 山下は3年間かかってタモリを探し出した。
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