星野仙一も驚いた...「朝8時にホテルのドアでノックが、開けるとまさかの...」球界のドン「ナベツネ」の《圧倒的》だった業界再編への行動力
「ナベツネさんが球界を救った」
12月19日未明、肺炎のため98歳で亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄さん。壮大な野望と信念を持って球界を牛耳ったドンの秘話を関係者たちが明かす。 【一覧】プロ野球「最も愛された監督ランキング30」最下位は、まさかの… 前回記事『「常に巨人ファースト」「巨人が中心でほかの球団を支えてやっている」...球界のドン「ナベツネ」逝く、その「往年の功罪」』から続く。 渡辺さんは91年に読売新聞社社長に着任すると、すぐに巨人の人事にメスを入れた。読売関係者が解説する。 「巨人は前年の優勝から4位に転落し、監督だった藤田元司さんの腹心の近藤昭仁ヘッド、松原誠打撃コーチを解任した。翌年も優勝を逃すと藤田さんも退団。後任に関して読売社内には王貞治派もいたけど、ナベツネさんはJリーグ開幕が控えていたこともあり国民から絶大の人気を誇る長嶋茂雄さんに白羽の矢を立てた。 結果にシビアだった元社長の務臺光雄さんは長嶋さんを信用しておらず、一次政権時に引導も渡した。務臺さんが生きている間は長嶋さんがユニフォームを着ることはないというのが暗黙の了解だった。 それをナベツネさんが解禁した。『巨人の監督は読売新聞社の権力者を映す鏡』と言われたが、その象徴がミスターの復帰だった。読売新聞社内でも94歳の務臺さんから60代のナベツネさんに若返るということで、すごく期待が大きかった」 この決断が、あのドラマへと繋がる。第二次長嶋巨人は93年こそ3位に終わったが、94年は長嶋みずから「国民的行事」と呼んだ、史上初めて同率首位チーム同士による直接対決「10・8決戦」で中日を下して劇的Vで野球人気を再び燃え上がらせた。 「ナベツネ、長嶋ラインが球界を救ったと言っても過言ではない。それにスポーツ紙にとってナベツネさんは画期的な人だった。それまでの務臺さんは巨人の幹部でもなかなか会えないくらいの人で、激励会のような大きな球団行事のときにしかマスコミ対応をしなかった。読売の『奥の院』については様子すらつかませなかったんだ。 私も一度、88年に王さんの去就が取り沙汰されていたころ、読売本社で直撃をしたことがあったけど犬を追い払うかのようにあしらわれた。でもナベツネさんは記者経験があるからなのか、本当によくしゃべってくれた。チームのこと、選手のこと、人事のこと、聞けばなんでも答えてくれた」(前出・スポーツ紙担当記者) 記者たちは朝から渡辺さんを探していたという。