TikTokで流行の「#ストリートスナップ」は“写真表現の未来”となるか
◇写真界における伝統的「ストリート・スナップ」との違い 声かけの後は、「今日は何しに(街へ)来たんですか?/普段何されてるんですか?」等のインタビューに移り、続いてポージングを決めた被写体を写真撮影する模様を映しながら写真の画像をインサートしつつ、その場でデジタルカメラの液晶画面を被写体に見せて「こんな感じです/どうですか」「いいっすね」といったやりとりをし、最後に互いに「ありがとう」と感謝を述べて動画は締めくくられます。 ようするに、ここでは伝統的な「ストリート・スナップ」とは全く異なる形式が定着しています。同じ「スナップ」を謳いながらも、実のところ「1枚の写真」ではなく、むしろ「写真をギミックにしてコミュニケーションやストーリーを伝える動画」としてSNSで流通しているのです。 もともとSNS等の液晶画面で写真を見るにあたっては、写真共有アプリInstagramに顕著なように、量的増大に伴う「インフレーション」によって「1枚の写真」が持つ意味が希釈化される傾向にありましたが、こと「#ストリートスナップ」においては「1枚の写真が力を持ち得る」という信念とそれに支えられる従来の枠組み自体がもはや成立していません。 また、TikTokerと被写体との間で合意が前提とされていることからは、もともと「ストリート・スナップ」が持つ窃視的志向性、すなわち「ありのままを捉えるためには相手に気取られずに撮影すべきである」といったテーゼの崩壊が読み取れます。 もっとも、私はいまさらそれを嘆きたいわけではありません。現代のように個人情報保護やプライバシー意識が高まる前から、すなわち路上で/路上を撮るということが猛烈な逆風を受ける以前から、とりわけ欧米の写真家たちは「ストリート・スナップ」の窃視性について内省してきました。 歴史を振り返れば、写真の世界の中で「ストリート」でのスナップ写真が隆盛をみた1960年代、そうした写真には、1936年の『LIFE』誌創刊をメルクマールとするグラフ雑誌の時代へのカウンター的な意味がありました。 つまり、「グラフジャーナリズム」の主張が第二次世界大戦の連合国側からパブリックに発信される「シンプルな正義とヒューマニズム」のメッセージだとすれば、「ストリート・スナップ」は撮影者のプライベートな眼差しを通して「言葉に還元できない想い」を伝える装置として存在したのです。それは「新しいドキュメンタリー」と見なされ、1967年にニューヨーク近代美術館で開催された『New Documents』展は写真史の転換点の一つとなりました。 しかし、この流れは80年代ポストモダンの近代主義批判の文脈のなかで終焉へと向ったかにみえます。そこで問われたのは、被写体を都合よく捕獲するような、カメラを仲立ちとした視線の非対称性による権力構造でした。すなわち、カメラを持つこと自体が撮影者に優位性を与え、逆に撮られる側は弱い立場に置かれるという力学への批判です。