秀麗富嶽十二景はいつ、誰が、どのように選定したか⁉︎ 選定にまつわる秘話とは
その山頂から望む富士山の美しさに魅了され、多くの登山者が山梨県・大月市を中心とした東部山域に足繁く通う「秀麗富嶽十二景」と呼ばれる山々があります。なかには標高550mという里山クラスの山もありますが、概ね1000mから1500mクラスの低山で、十二景として選定されている山は全20座あります。年間を通じて秀麗なる富士山の眺望を楽しめる低山の魅力をシリーズでご紹介します。 【写真】秀麗富嶽十二景の選定にまつわる文献の中身などを見る(全4枚)
「優れた景観環境 秀麗富嶽十二景」という報告書の存在
秀麗富嶽十二景は大月市域の山頂から望む美しい富士山を市のシンボルとし、併せて故郷の自然をそのまま後世に伝えようと意図して選定され、平成4年(1992年)に公布されました。十二景と銘打たれ、1番山頂から12番山頂までで全20座になります。トータルで12座ではない理由は一部の番号山頂に複数の山が並列で選定されているためです。 日本百名山に決して劣らない詩的で秀逸な名称の秀麗富嶽十二景の誕生秘話を探るべく、大月市に問い合わせました。数少ない資料の中からひとつの報告書「優れた景観環境 秀麗富嶽十二景」という文献から、その経緯を探ることができました。
地質学と地形学の観点から定義された秀麗富嶽十二景
報告書をまとめたのは当時の市立大月短期大学で教鞭をとった田中 収教授で、地質学や地形学の観点から「大月市周辺から見る富士山がもっとも美しい」との見解を示していたそうです。教授によると富士山に前山が重なり、まるで十二単をまとったような美しさを見せてくれることから「秀麗富嶽十二景」と命名。大月市も「秀麗富嶽十二景」を活用した地域活性化を目指すとともに、故郷の自然をそのまま後世に伝えようと同教授を中心として、昭和63年(1988年)度から選定に入り、平成元年度に選定を終えました。 その記録をまとめたのが1991年に提出された報告書の「優れた景観環境 秀麗富嶽十二景」です。選定には田中教授に加えて北巨摩教育事務所、地域資源学術調査委員の方々などが参加されたそうです。
報告書に記された秀麗富嶽十二景は全17座だった秘史
田中教授らがまとめた1991年に提出された「優れた景観環境 秀麗富嶽十二景」報告書の中に、いまでは思いも寄らない歴史的事実を記した資料が残されていました。記録は1988年の選定の初期の頃ですが、秀麗富嶽十二景山頂位置図と呼ばれる地図です。1番から12番まで標高数値とセットで記され、四角い枠でマークされています。 この位置図から、現行の20座から3座記載漏れとなっているのが見て取れます。そのうちの2座は後年になって追加された山、具体的には8番山頂のお伊勢山と10番山頂の御前山です。残る1座は何か。5番山頂の奈良倉山です。地図上右上、つまり北にあるはずの山が抜けていることがわかります。 奈良倉山は当初、秀麗富嶽十二景の本来のスターティングメンバーではなかった、という事実をここで知ることになります。5番山頂は、現行で4番山頂に滝子山とともに名を連ねる笹子雁ヶ腹摺山とされているではありませんか。秀麗富嶽十二景選定においては過去に、大きな見直しがなされていたことを気づかせてくれます。
ソトラバ編集部 内海