「会社員時代より格段に楽しい」…定年後に「仕事の位置づけ」はどう変わるのか
年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%――。 【写真】意外と知らない、日本経済「10の大変化」とは… 10万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
仕事に趣味に、人生を謳歌する
山本雅俊さんは都内の大学の経済学部を卒業した後、電気機器メーカーに就職した。入社後の配属先は調達部門、各種部品のバイヤーとして働く。数年たつと、外勤の仕事がやりたくなり、営業への異動を自ら申し出、希望がかなう。入社して5年が経過していた。 営業は約3年で担当地域が変わる。30歳のとき、地方の支社への転勤を命じられ、係長に昇進。その支社には10年間勤務し、課長になると同時に本社に戻る。45歳のとき、部長に昇進、新設された企画部門の責任者に抜擢される。山本さんのキャリアは順風満帆だった。 「当時の営業はいまと違い、顧客のもとを頻繁に訪れるといった体を張ったスタイルです。長年そんな仕事だけやってきた私に務まるのか、戸惑ったことを覚えています」 当時、言葉や記号をやり取りする通信と、動画などの映像は全くの別物と認識していたが、衛星放送に代表されるように、その二つが融合し、通信機能を使って映像をやり取りする時代が到来していた。そうしたなかで取り組むべき新事業を考え出さなければならなかった。難題に頭を抱えた。家電メーカーや通信機器メーカーを訪れ、最先端の話を聞かせてもらった。テレビ局の放送技術研究所にも何度も足を運んだ。 「自宅でみているテレビ映像と違って、リアルそのもの。こういう映像が自宅でみられる時代が来るのか、と驚きました」 成果が出ないうちに10年がたち、55歳で役職定年になった。給料の額は変わらないが、部下なし部長。仕事内容は営業で入社当時と同じような仕事に戻り、60歳で定年退職する。再雇用の仕組みは当時はまだ整備されていなかった。 「経費ばかりかかって実績がありませんので、なかなか大きい部隊にはなりきれずに終わってしまった。会社のルールで55歳までに役員にならなかった者は、役職定年で部長職を下ろされるわけです。役職定年になったときには、もう新企画の仕事から離れ、後任に仕事を託しました」 「給与に関しては、うちは組合が強くて。役職定年になっても、組合の定期昇給に我々も入ってますので、一般の社員がたとえば3%給料が上がれば、我々も3%上がります。そういう意味で気持ちは落ちても給料は上がったという不思議な現象があの時代にはありました」 当時、子供が二人いて、下が大学生。学費がかかるため、働き続けた。自分に合いそうな仕事を探したところ、銀行でお客様を投資信託の窓口に案内する仕事が見つかった。 「試験を2度受け、採用になりました。スーツにネクタイのきちんとした正装で、お客様に接しなければならない。身だしなみや礼儀については、口酸っぱく指導されました。今までに考えられないようなことを指摘されて、銀行ってやっぱりすごいなと思いましたよ。銀行では一番奥のほうに、必ず投資信託系のデスクがあるんです。銀行としては投資信託は手数料がとれるので、それに力を入れたいってことで。特別のお客さんって、銀行、奥のほうへ通しますよね。そこに私のような人が接客して案内すれば恰好がつくので」 「仕事の内容は接客ですね。金融の専門知識については質問されても詳しいことはお答えできませんので、その手前のところで接客の仕事をしていました。投資信託のことは一から勉強もして、若い頃のように新しいことをがむしゃらに勉強するというのはこの歳からは難しかったのですが、できる範囲で自分なりの勉強もしつつ、お客様の役に立てるよう仕事をしてきました。接客にあたっては、これまでの人生経験が役に立つことも大いにありました。銀行側もそういったところを期待していたんでしょうね」 雇用は1年契約で毎年更新していたが、70歳になると更新はない。そのタイミングで自宅を引っ越した。新しく住んだ場所の近くのハローワークに通ってみたところ、高齢者向けの仕事を紹介していた。市内の施設で、週3日、グラウンドや体育館をサッカーや野球のチーム、バドミントンサークルなどに有料で貸し出す手続きを行う管理業務がいまの主な仕事である。仕事がある日以外も毎日外出して趣味に勤しんでいるという。 「銀行の窓口の仕事は週5日勤務でしたが、もう毎日働くのはそろそろいいかなと思って。子供たちもすっかり手を離れてますから、お金も全然かからないですし。今の仕事はとても楽しいです。4人でシフトを組んで仕事を回しているんですけど、いろいろな年代のスポーツをやっている人と接することができるのがいいですね。自分自身も体を動かす良い機会にもなってます」 「音楽が好きでピアノのレッスンに通っていますし、コンサートにもよく足を運びます。体を動かすのも好きで、週2~3回はトレーニングジムにも行っています。何よりゴルフが大好き。以前は9割が接待でしたが、いまは身銭を切っていますから、気持ちが全く違います。もちろんいまのほうが楽しい」 キャリアの転機は部長時代。山本さんは営業で成果を上げ続け、順調に出世したが、部長職になって壁にぶつかる。部下のマネジメントは苦にはならなかったが、部長として次世代の会社経営を担う新ビジネスを作り出すという、一段上の役割をうまく乗り越えることができなかった。新事業の企画がうまくいっていたら、役員への道が開けたかもしれない。 「当時の仕事は役員からの期待も高く、緊張感の強い仕事でした。私のキャリアのなかで一番苦しい時期だったと思います。同期は110名いました。役員にまで上りつめるのはほんの一握りです。当時、自分もその一人に、という気持ちもありました。ただ、結果的にはそこまで上り詰めることはできなかった」 「役職定年以降、60歳の定年までの5年間、暇になりました。管理する部下がいない。文書やデータを作らなくてもいい。会社に勤めながらも、自分の好きなことを追求できる時間ができたわけです。この間に将来何やろうかなっていうことを、かなり考えてました」 この間、山本さんは会社を離れた後の人生設計に取り組む。それまでは毎晩会社の仲間と飲んでいたが、きっぱりやめ、外の人と交流するようになった。定年退職以降は銀行の案内係、そしていまも続けている公共施設の管理員という二つの仕事に就いた。 「その二つとも、私の経験からはっきり言えば難度の低い仕事です。銀行も投資信託の専門知識が必要とされたわけではなく、いわゆる接客業ですから難しくはありませんでした」 60歳で定年となった。以降、山本さんのなかで仕事の位置づけが大きく変わった。 「長年勤めた職場を失うという喪失感は全くなかった。むしろ、これからは好きなことができるんだという解放感がありました。それ以前は、『こうやってくれ』『ああやってくれ』と上司から命令される日々でした。それが完全に変わりました。自分でこうやろう、ああやろう。この人と酒を飲もう。この仲間でゴルフをやろう。すべての決定権が自分に移りました」 「仕事が7割、それ以外の遊びを含めたプライベートが3割だったのですが、逆転しました。現在は趣味と人付き合いに没頭しています。会社員時代と今の生活を比べたら、今のほうが格段に楽しいですよ。本来、好奇心旺盛で、家にこもって何かをするより、外に出て世間と接していたいタイプなんです」 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)