「地震翌日から強盗が」 今語られる能登震災の全容 復興は道半ばも「能登の人は強い」
地震発生から5日後、金沢の病院で家族と再会
それぞれがそれぞれの日常を過ごす中、迎えたハレの日にその瞬間は訪れる。1月1日午後4時10分、最大震度7の地震が能登地方を襲った。自宅で家族だんらんの時間を過ごしていた森さん一家は、一瞬にして倒壊した家屋の下敷きになったという。 「お互いの姿は見えず、声だけが聞こえているという状況でした。私は腰から下がつぶれてしまい、津波警報が出るなか、近所の高齢のおじいさんが戸板を担架にして運び出してくれた。三男の永吉朗も挟まれた足首の壊死が始まっていましたが、病院へつながる道はすべて寸断されていました」(森さん) 陸路での移動が絶望的な状況の中、海上のテトラポッドを救急隊員や消防団など数十人の助けを借りて渡り、集落を脱出。ようやくたどり着いた病院では検査機器がすべて破損しており、ドクターヘリで金沢の病院へ緊急搬送された。森さんは骨盤外輪骨折と診断、12歳の永吉朗くんは到着があと30分遅れていたら命に関わっていたと告げられた。当初大きなけがはないように思われた妻は、後に背骨を骨折していたことが発覚。家族では、中学1年生だった次男の銀治郎くんが犠牲となった。 深い悲しみと混乱の中、バラバラとなった家族が再会したのは、地震発生から5日後の1月5日。顔を合わせる瞬間まで森さんの中にあった懸念は、すでにかけがえのない故郷となっていた能登に対する、家族それぞれの思いだった。 「『もう戻りたくない』と言われたらどうしようと。地震発生直後はもちろん、それ以前から何度も自分たちを助けてくれた能登の人たちは命の恩人。対面した瞬間、妻も『町内の方々にとてもお世話になった、松波に戻りたい』と言ってくれた。それが何よりうれしかった」(森さん) 寝たきりからスタートした過酷なリハビリ生活の末、3月中旬には杖を使いながら自力歩行ができるように。現在は日常生活が送れるまでに回復した。5月下旬、元自宅付近の戸建てを借りた「みなし仮設住宅」への入居が決まり、家族そろって再び能登へ復帰。子どもたちも「早く帰りたい」と話す反面、実際に引っ越しの日が近づくとPTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を示すこともあったという。 「今でも一人でトイレに行けなかったり、暗いところを怖がったり。瓦の家には住みたくない、(亡くなった次男の)銀のつらさもあって、壊れた前の家の前は通りたくないと。妻でさえ、最近になってやっと以前通っていたスーパーに行けるようになりました。それでも、能登を離れる気は起きなかった。それだけ私たちにとって大事な場所になっていたんです」(森さん) 道下さんもまた、1月1日には言い知れない葛藤の記憶が残る。 「妻と娘の上に覆いかぶさりながら、頭の中は妙に冷静で、『最後に家族で一緒にいられてよかった』と死を覚悟しました。幸い我が家は倒壊はせず、同じ敷地内で同居する父の安全も確認できましたが、97歳で隣の珠洲市で一人暮らしをしていた妻の祖母だけ連絡が取れない。津波警報が鳴るなか、妻と娘はおばあちゃんが心配だ、早く助けに行こうと泣きましたが、自分は目の前の家族を危険にさらす判断ができず……。結局祖母は別の避難所にいて無事でしたが、あのとき何が正解だったのかは今も分からないままです」(道下さん) 町役場の職員として、自分の家族もままならない被災直後から、避難所の運営や住民の安否確認に当たった。本来であれば帰省者が集まりにぎわうはずだった正月。避難所には平時の想定を超える数の被災者が押し寄せ、混乱の中で火事場泥棒まがいの行為も横行した。 「地震翌日から強盗が入ったり、避難所に侵入して逮捕される人が出たり。それでも、それどころじゃない、命が助かっただけでよかったと責めるほどの気力も湧かない。物資を届けにきたという人も、いい人のなのか悪い人なのか区別がつかず、あの状況で人の善意を疑わざるを得なかったのは本当に苦しかった」(道下さん)