「お前がやれ」会社で最年少29歳、突然の社長就任 東京進出を進めたら、地元・大阪のベテラン社員が離反 ~日本広告企業前編
◆いきなり社長、銀行の担当者も「初めまして」
――その決意は大変だったと思いますが、事業を承継した後もご苦労があったのではないですか。 お金、つまり資金繰りの問題と株の問題がありました。 この問題を解決しないと会社として動き出すことができませんでした。 それまで私は一社員でしたから、銀行の担当者や重要なステークホルダーの方々と、一度も面談したことはありませんでした。 「初めまして」と挨拶しながら、借入金の条件などがどうなっており、どうすべきかを一から話し合うという状況でした。 会社を回すためには、当面の資金が当然必要になので、まずその確保が大変でした。 最初の3ヶ月間は前の社長の個人保証の処理や担保の差し替えなどに没頭しました。 当社の株は、前社長の保有株と親族の保有株、社員の保有株、取引先などのステークホルダーの保有株がありました。 会社をスムーズに経営するには買い取るべき株を買い取りたかったのですが、調整が必要でした。 前社長、祖父の頭に青写真はあったと思いますが、何も教えてもらっていないので、手探りで進めざるを得ません。 ――どのように解決できたのでしょうか。 父親が最大限のサポートをしてくれました。「お前がやれ」と背中を突き飛ばした結果として、助けてもらいました。 父が経営する会社と一時的にグループ化するなどして、金融保証に協力してくれました。 両親の協力も得て、最初の半年ほどでお金の問題を処理しました。しかし株の買い取り問題の解決には2年近くかかりました。
◆東京に進出しなければならない時代に
――資金繰りや株の買い取り問題も大変でしょうが、日々の会社の運営も大変でしたか。 が社長になったころは東京のマーケットを無視できなくなっていました。 大阪を発祥の地とする当社ですが、多くの法人が集まる東京の営業戦略を強化しなければならない状況でした。 ――大阪が発祥の地ですから元々は大阪のシェアが高かったのですね。 私が入社した1997年ごろ地元の大阪の売り上げシェアが圧倒的に大きく、7割を超えていました。 現在は半分を超えている東京の売り上げシェアは3割弱でした。 しかしそのころになると大阪に本社がある会社さんも広告宣伝の部署を東京に移されることが多くなり、また東京で起業される会社もぐっと増えました。 広告業で生きていくには、首都圏に足がかりを作らないといけない時代になっていました。 当時、新入社員だった私は1、2ヶ月に1度は東京に出張し、上司の後ろに付いて営業訪問をさせていただきました。 東京の方に東京の交通広告や屋外広告を買っていただくには、まず東京を理解する必要がありました。 東京の街を歩き回ったり、自転車に乗ったりして、街を理解し、どんな広告をどこに出せばいいのかを考える日々でした。