【平成の名力士列伝:武蔵丸】大相撲の美徳を貫き続け横綱に上りつめた「角界の西郷隆盛」
【古き日本の美徳を胸に伝統の継承者に】 武蔵丸の昇進により、曙、貴乃花、若乃花と合わせて4人が横綱として並び立ったが、すでに武蔵丸以外の3人は全盛期を過ぎていた。若乃花は1年後、曙は2年後に引退。貴乃花もケガによる休場が多かった。武蔵丸自身も横綱昇進4場所目の平成12(2000)年1月場所、左手首の古傷が悪化して初めて休場し、連続勝ち越しは途切れたが、その後も奮戦を続け、平成14(2002)年には6場所中3場所で優勝した。 特に印象的なのがこの年の9月場所千秋楽、貴乃花との2敗同士の決戦だ。8場所前の平成13(2001)年5月、武蔵丸はヒザに大ケガを負った貴乃花を本割で降したが優勝決定戦で敗れ、劇的Vの引き立て役となった。しかし、今度は得意の右を差して圧倒し、12回目の優勝。心優しい武蔵丸の意地が伝わった一番だった。 この優勝以降、再び賜盃を抱くことはなく、平成15(2003)年11月限りで引退。優勝12回は貴乃花(22回)には及ばないが、曙(11回)や若乃花(5回)を上回る。そして、現在の相撲界を見渡すと、4人の横綱のうち、若乃花、曙、貴乃花がそれぞれの事情で相次いで相撲協会を去ったなか、武蔵川親方となった武蔵丸は相撲協会に残り、武蔵川部屋の師匠として奮闘している。 大関昇進時の口上で「日本人の心をもって」という言葉を取り入れたように、武蔵丸は辛抱や我慢という、古き日本の美徳を身につけていた。そんな姿勢は、入門時からの師匠・武蔵川親方の指導で培われたものだ。 武蔵丸の入門前、ハワイ出身力士に数カ月で逃げ出される苦い経験をしていた親方は、武蔵丸にはすぐに新弟子検査を受けさせず、2カ月間を研修期間として相撲部屋の環境になじませ、日本語を覚えさせた。その後も、外国出身だからと言って特別扱いせず、相撲でも生活面でも厳しく指導した。武蔵丸もその思いにこたえて精進し、力士として己を磨いて、誠実に土俵を務め続けた。そんな姿を間近で見る部屋の力士たちは心からの信頼を寄せ、引退した時には皆が号泣したという。 そこには、相撲部屋が厳しくも温かい家族としてまとまる、大相撲の伝統がある。そんな武蔵丸が、相撲協会に残り、武蔵川部屋の弟子たちを指導する一方で、現役力士に対しても、ぶれない視点で評価し、批判している。それは、平成時代だけでなく、昭和時代から続く相撲の良き伝統を令和時代に伝えることにつながると期待したい。 【Profile】武蔵丸光洋(むさしまる・こうよう)/昭和46(1971)年5月2日生まれ、アメリカ・ハワイ州オアフ島出身/本名:武蔵丸光洋/所属:武蔵川部屋/初土俵:平成元(1989)年9月場所/引退場所:平成15(2003)年11月場所/最高位:横綱(第67代)
十枝慶二●取材・文 text by Toeda Keiji